放課後、毒キノコに恋をする

 教室に入るなり、私は異様な空気を感じ取った。
 いつもより静かなざわめき。こちらをちらちらと窺う視線。誰かが小声で何かを囁き合っては、私と目が合うとさっと逸らす。
 昨日の保健室の一件が、一晩でとんでもない規模の噂に育っていたらしいことを、私はすぐに理解した。
「間下さん」
 休み時間、隣のクラスの、名前もよく知らない女子が声をかけてきた。緊張した面持ちで、けれど好奇心を隠しきれない目をしている。
「間下さん、一ノ瀬くんと付き合ってるの?」
 単刀直入すぎる質問に、私は一瞬言葉を失った。
「違います!」
 慌てて否定した。声が思ったより大きくなってしまい、周囲の視線がさらに集まる。
「でも、体育のとき保健室まで付き添ったって聞いたし、最近すごく仲良さそうだし」
「同じクラスなだけです。それ以上でも以下でもないです」
 なるべく毅然とした態度で言い切った。けれど、相手の表情を見る限り、あまり信じてもらえていないようだった。
 その女子が去っていった直後、まるで狙いすましたようなタイミングで、噂の本人が現れた。
「何の話?」
 颯真はいつもの調子で、私の会話に自然に割り込んできた。
「何でもないです」
「今、俺の名前聞こえたけど」
「気のせいです」
 しらばっくれようとしたけれど、周囲の何人かが、期待するような目でこちらを見ているのに気づいた。誰かが助け舟を出すように、あるいは面白がるように言った。
「一ノ瀬くん、間下さんと付き合ってるんですか?」
 教室中の視線が、一斉にこちらへ集まった気がした。心臓が嫌な音を立てる。
 颯真は少し考えるような間を置いてから、答えた。
「付き合ってないよ」
 その一言に、私はほっと胸を撫で下ろした。当然の答えだ。事実、私たちは何でもない。
 けれど、安堵したのも束の間だった。
「まだ」
 颯真は、そう付け加えた。
 教室が、一瞬にしてどよめいた。誰かが小さく歓声のようなものを上げ、別の誰かがひそひそと隣の人間に何かを囁いている。
 私は自分の顔から血の気が引いていくのを感じた。
「一ノ瀬くん!」
 思わず声を荒らげてしまった。周囲の目も気にせず、私は颯真の腕を掴んで廊下へと引きずり出した。
 廊下の隅、人気のない場所まで来ると、私は颯真に向き直った。
「なんであんなこと言うの!」
「だって、付き合ってないのは本当だし」
 颯真はけろりとした顔で答えた。悪びれた様子は微塵もない。
「『まだ』がいらない! なんで余計なこと付け加えるの!」
「本当のことだから」
「本当のことじゃない! 付き合う予定なんてどこにもない!」
「そうなの? 俺はあると思ってるけど」
 その一言に、私は言葉を失った。冗談なのか本気なのか、颯真の表情からは判断がつかない。いつもの軽い笑みを浮かべているだけで、真意が読み取れない。
「ふざけないで」
「ふざけてないよ、意外と」
「意外と、じゃなくて、いつもふざけてる」
 颯真はそれを聞いて、声を立てて笑った。今この状況で笑えるという神経が、正直理解できなかった。
「一ノ瀬くんのせいで、教室にいられなくなったんだけど」
「大げさだなあ」
「大げさじゃない! さっきの空気、見たでしょ! 明日から何て言われるか」
「べつに、事実じゃないなら気にしなくていいじゃん」
 その言い草に、私はさらに苛立った。事実じゃないから気にしなくていい、というのは、噂される側の気持ちをまったく理解していない発言だ。噂というのは、事実かどうかに関係なく、一度広まれば独り歩きを始める。中学時代、それで何人もの人間関係が壊れるのを見てきた私には、その恐ろしさが痛いほどわかっている。
「一ノ瀬くんは、こういうことされて平気なの?」
「平気だよ。だって、穂乃果と噂になって困ることなんてないし」
「私は困る!」
 思わず声が大きくなった。
 颯真の笑顔が、ほんの一瞬、揺らいだ気がした。けれど、それもすぐに元の余裕のある表情に戻ってしまい、私は自分の見間違いだったのかと疑った。
「そんなに嫌?」
「嫌」
「なんで」
「なんでって……」
 理由を説明しようとして、私は言葉に詰まった。恋愛トラブルに巻き込まれたくないから。目立ちたくないから。平穏な学校生活を送りたいから。理由はいくらでも並べられるはずなのに、なぜか喉の奥で言葉が絡まって出てこない。
 代わりに、口をついて出たのは、まったく別の言葉だった。
「私は、一ノ瀬くんを好きになったりしないから」
 自分でも驚くほど、はっきりとした声で言い切ってしまった。
 その瞬間、颯真の表情から、笑みが消えた。
 一瞬だけだった。ほんの瞬き一つ分ほどの短い時間、彼の顔から完璧な笑顔が剥がれ落ちて、その下に何か別のものが覗いた気がした。
 けれど、それもすぐに元に戻った。いつもの、余裕のある笑顔に。
「……そっか」
 短い返事だった。けれど、その声のトーンには、いつもの軽さがなかった。どこか、沈んだような響きがあった。
 私は、自分が何か取り返しのつかないことを言ってしまったような気がして、急に落ち着かない気分になった。けれど、それを撤回する理由も、撤回する言葉も見つからなかった。事実を言っただけのはずだ。私は彼を好きになるつもりなどないし、これからもそうであるべきだ。
「……とにかく、もう変なこと言わないでください」
 私はそれだけ言って、颯真に背を向けた。
「うん」
 背後から、短い返事だけが返ってきた。
 教室に戻る廊下を歩きながら、私は妙な胸のざわめきを感じていた。振り返って颯真の顔をもう一度見たいという衝動と、絶対に振り返るべきではないという理性が、私の中でせめぎ合っていた。
 結局、私は一度も振り返らなかった。
 けれど、廊下の角を曲がる直前、ほんの一瞬だけ目に入った颯真の横顔が、頭から離れなかった。
 初めて見る、少し寂しそうな顔だった。
 いつも人を惹きつける、あの完璧な笑顔の下に隠れていたものが、ほんの少しだけ覗いたような気がした。
 その日一日、私は授業にまったく集中できなかった。ノートを取るふりをしながら、頭の中では何度も、あの一瞬の表情が再生されていた。
 ――そっか。
 たったそれだけの言葉なのに、なぜあんなに重く響いたのだろう。
 私は自分に言い聞かせた。気にする必要はない。あれは、彼にとってはただの些細な出来事の一つに過ぎないはずだ。誰にでも優しくて、誰からも好かれる彼にとって、私のような平凡な女子に拒絶されたところで、たいした痛手にはならないはずだ。
 なのに、あの表情を思い出すたびに、胸の奥がちくりと痛んだ。