正式に交際が始まってから、二週間が過ぎた。
学校での颯真の人気は、相変わらず健在だった。誰かに道を尋ねられれば親切に答え、後輩に頼られれば快く力を貸す。以前と何も変わらない、優しい一ノ瀬颯真のままだった。
けれど、決定的に違うことが一つあった。
「一ノ瀬くん、今度の休み、遊びに行かない?」
廊下で女子生徒に誘われたとき、颯真は、以前のような曖昧な返事をしなくなっていた。
「ごめん、彼女がいるから」
その一言で、はっきりと線を引く。誘っていた女子生徒は少し驚いたような顔をしたけれど、それ以上は何も言わずに引き下がっていった。
その光景を教室の隅から見ていた私は、複雑な気持ちを抱えながらも、確かな安心感を覚えていた。
とはいえ、完全に慣れたわけではなかった。颯真の人気そのものは変わらないから、廊下で彼が誰かと親しげに話しているのを見かけるたびに、私の胸の奥には、小さな棘のようなものが疼いた。
「穂乃果、今、俺のこと睨んでた?」
「睨んでません」
「絶対睨んでたよ、さっき」
「気のせいです」
「別のクラスの子と話してただけなのに」
「知ってます、気にしてません」
「嘘だ。ちょっと嫉妬した?」
「してません」
「したって言ってくれないと、条件破ったことになるけど」
その指摘に、私は言葉に詰まった。確かに、あの日、私は「嫉妬したら嫉妬したって言って」という条件を出した。それを自分自身が守れていないというのは、少し具合が悪い。
「……少しだけ」
渋々認めると、颯真は満足そうに笑った。
「素直でよろしい」
「調子に乗らないでください」
以前のように、逃げることはもうなかった。この曖昧さのない、まっすぐなやり取りが、私にとっては何よりも心地よかった。
放課後、私たちは二人で図書室に向かった。最初に出会った、あの場所だ。
窓際の席に座り、私はいつものようにキノコ図鑑を開いていた。颯真は隣の席から、その本を覗き込んでくる。
「そういえば」
颯真がふと思い出したように言った。
「俺、結局何のキノコなの?」
「毒キノコ」
私は即答した。
「種類は?」
「猛毒」
「ひどくない?」
「自覚ないの?」
「せめて食用に昇格してない?」
「してません」
「彼氏なのに?」
「彼氏と食用は別問題です」
颯真は苦笑しながら、頬杖をついた。
「でも、穂乃果、好きなんでしょ?」
私は、少しの間だけ答えをためらった。それから、小さく頷いた。
「……まあね」
颯真は、それを聞いて、心底嬉しそうに笑った。その笑顔は、教室で誰にでも向けていたあの完璧な笑顔とは、どこか違って見えた。もっと自然で、もっと飾らない、私だけに向けられた笑顔だった。
夕方の光が、図書室の窓から斜めに差し込んでいた。あの日と同じ、埃っぽい空気の中を漂う光の粒子。あの日、私はこの場所で、彼の秘密を目撃してしまった。そして今、私はその秘密の続きを、彼の隣で生きている。
図書室を出て、帰り道を二人で歩いた。夕焼けが空を茜色に染め、街並みの輪郭を柔らかくぼかしていた。
「名前で呼んで」
颯真が、もう何度目かわからない要求を、また口にした。
私はしばらく迷った。これまで、頑なに「一ノ瀬くん」で通してきた。名前で呼ぶことは、なんとなく、最後の一線を越えるような気がしていた。
けれど今、この夕暮れの中で、その一線を越えることに、もう抵抗はなかった。
私は小さく息を吸って、口を開いた。
「……颯真」
その一言を口にした瞬間、颯真の足が止まった。
振り返ると、彼はこれまで見たことのないほど、驚いたような、それでいて何より嬉しそうな顔をしていた。
「もう一回」
「絶対言わない」
「なんで」
「調子に乗るから」
「もう乗ってるんだけど、今」
颯真はそう言いながら、隠しきれない笑顔を浮かべていた。夕日の光が、その笑顔を橙色に染めている。
私は隣を歩きながら、心の中で思った。
綺麗で、人を引き寄せて、近づけば危険。
最初の分類は、きっと間違っていなかった。
だけど――好きになってしまった毒キノコなら、もう逃げるつもりはない。
冬の始まりの夕暮れの道を、私たちはゆっくりと歩き続けた。
(完)
学校での颯真の人気は、相変わらず健在だった。誰かに道を尋ねられれば親切に答え、後輩に頼られれば快く力を貸す。以前と何も変わらない、優しい一ノ瀬颯真のままだった。
けれど、決定的に違うことが一つあった。
「一ノ瀬くん、今度の休み、遊びに行かない?」
廊下で女子生徒に誘われたとき、颯真は、以前のような曖昧な返事をしなくなっていた。
「ごめん、彼女がいるから」
その一言で、はっきりと線を引く。誘っていた女子生徒は少し驚いたような顔をしたけれど、それ以上は何も言わずに引き下がっていった。
その光景を教室の隅から見ていた私は、複雑な気持ちを抱えながらも、確かな安心感を覚えていた。
とはいえ、完全に慣れたわけではなかった。颯真の人気そのものは変わらないから、廊下で彼が誰かと親しげに話しているのを見かけるたびに、私の胸の奥には、小さな棘のようなものが疼いた。
「穂乃果、今、俺のこと睨んでた?」
「睨んでません」
「絶対睨んでたよ、さっき」
「気のせいです」
「別のクラスの子と話してただけなのに」
「知ってます、気にしてません」
「嘘だ。ちょっと嫉妬した?」
「してません」
「したって言ってくれないと、条件破ったことになるけど」
その指摘に、私は言葉に詰まった。確かに、あの日、私は「嫉妬したら嫉妬したって言って」という条件を出した。それを自分自身が守れていないというのは、少し具合が悪い。
「……少しだけ」
渋々認めると、颯真は満足そうに笑った。
「素直でよろしい」
「調子に乗らないでください」
以前のように、逃げることはもうなかった。この曖昧さのない、まっすぐなやり取りが、私にとっては何よりも心地よかった。
放課後、私たちは二人で図書室に向かった。最初に出会った、あの場所だ。
窓際の席に座り、私はいつものようにキノコ図鑑を開いていた。颯真は隣の席から、その本を覗き込んでくる。
「そういえば」
颯真がふと思い出したように言った。
「俺、結局何のキノコなの?」
「毒キノコ」
私は即答した。
「種類は?」
「猛毒」
「ひどくない?」
「自覚ないの?」
「せめて食用に昇格してない?」
「してません」
「彼氏なのに?」
「彼氏と食用は別問題です」
颯真は苦笑しながら、頬杖をついた。
「でも、穂乃果、好きなんでしょ?」
私は、少しの間だけ答えをためらった。それから、小さく頷いた。
「……まあね」
颯真は、それを聞いて、心底嬉しそうに笑った。その笑顔は、教室で誰にでも向けていたあの完璧な笑顔とは、どこか違って見えた。もっと自然で、もっと飾らない、私だけに向けられた笑顔だった。
夕方の光が、図書室の窓から斜めに差し込んでいた。あの日と同じ、埃っぽい空気の中を漂う光の粒子。あの日、私はこの場所で、彼の秘密を目撃してしまった。そして今、私はその秘密の続きを、彼の隣で生きている。
図書室を出て、帰り道を二人で歩いた。夕焼けが空を茜色に染め、街並みの輪郭を柔らかくぼかしていた。
「名前で呼んで」
颯真が、もう何度目かわからない要求を、また口にした。
私はしばらく迷った。これまで、頑なに「一ノ瀬くん」で通してきた。名前で呼ぶことは、なんとなく、最後の一線を越えるような気がしていた。
けれど今、この夕暮れの中で、その一線を越えることに、もう抵抗はなかった。
私は小さく息を吸って、口を開いた。
「……颯真」
その一言を口にした瞬間、颯真の足が止まった。
振り返ると、彼はこれまで見たことのないほど、驚いたような、それでいて何より嬉しそうな顔をしていた。
「もう一回」
「絶対言わない」
「なんで」
「調子に乗るから」
「もう乗ってるんだけど、今」
颯真はそう言いながら、隠しきれない笑顔を浮かべていた。夕日の光が、その笑顔を橙色に染めている。
私は隣を歩きながら、心の中で思った。
綺麗で、人を引き寄せて、近づけば危険。
最初の分類は、きっと間違っていなかった。
だけど――好きになってしまった毒キノコなら、もう逃げるつもりはない。
冬の始まりの夕暮れの道を、私たちはゆっくりと歩き続けた。
(完)



