文化祭当日は、朝から快晴だった。
校門をくぐると、普段とは違う華やかな装飾と、生徒たちの高揚した空気が校舎全体を包んでいるのがわかった。私たちのクラスのお化け屋敷も、昨日までの準備の甲斐あって、なかなかの出来栄えに仕上がっていた。
「穂乃果、受付シフト、午前中だよね」
美月が確認するように声をかけてきた。
「うん、十時から」
「私は午後だから、また後で交代しに来るね」
美月と別れて、私は教室の入り口で受付の準備を始めた。お化け屋敷は思った以上に評判がよく、開始早々から長い列ができていた。
「間下さん、こっちの誘導お願いできる?」
クラスメイトに頼まれて、私は列の整理に回ることになった。慌ただしく動き回っているうちに、午前中はあっという間に過ぎていった。
颯真とは、その日、ほとんど顔を合わせることがなかった。彼は別の係――確か、校内放送か何かの担当だったはずだ――に回っていて、教室にはあまり姿を見せなかった。
けれど、昼過ぎになって、思いがけないトラブルが発生した。
お化け屋敷の内部で使っていた特殊効果用の機材が、突然動かなくなったのだ。暗闇の中で驚かせる仕掛けの一つで、これが止まってしまうと、お化け屋敷全体の演出に大きな支障が出る。
「どうしよう、配線がどこか切れてるみたいで」
担当していた男子生徒が、困惑した様子で機材を覗き込んでいた。
「電源のトラブルなら、放送室に詳しい人がいるかも」
誰かがそう言った瞬間、私の頭に真っ先に浮かんだのは颯真の顔だった。彼が放送機材の担当をしていることを思い出したからだ。
「一ノ瀬くん、呼んでくる」
気づけば、そう口にしていた。
放送室に駆け込むと、颯真は機材の調整をしているところだった。
「一ノ瀬くん!」
「穂乃果? どうしたの」
「お化け屋敷の機材が壊れて、動かなくなって」
颯真は一瞬で状況を理解したように、すぐに立ち上がった。
「見せて」
教室に戻ると、颯真は手際よく配線を確認し始めた。さすがに放送機材を扱い慣れているだけあって、原因の特定は早かった。
「これ、コネクタが緩んでるだけだと思う。締め直せば直るはず」
颯真はそう言いながら、慣れた手つきで作業を進めていった。数分後、機材は無事に復旧し、教室内から歓声が上がった。
「一ノ瀬くん、ありがとう!」
「助かった!」
クラスメイトたちが口々に感謝の言葉を伝える中、颯真は少し照れくさそうに笑っていた。
「たいしたことしてないよ」
その様子を見ながら、私は複雑な気持ちを抱えていた。颯真が誰かを助ける姿は、以前と何も変わっていない。けれど、その後の彼の態度は、明らかに以前とは違っていた。
機材が復旧した後、颯真はすぐに立ち去ろうとはせず、私の方をちらりと見た。
「穂乃果、後で少し話せる?」
「……はい」
短くそう答えると、颯真は満足げに頷いて、放送室へと戻っていった。
その日の午後、お化け屋敷の企画は無事に終了し、生徒たちは片付けと打ち上げの準備に取り掛かった。校内は文化祭の終わりを惜しむような、賑やかで少し切ない空気に包まれていた。
夕方近く、片付けが一段落したところで、私は颯真からのメッセージを受け取った。
「屋上に近い階段の踊り場に来てくれる? 誰もいないから」
その文面を見て、私は心臓が大きく跳ねるのを感じた。何かが起こる予感があった。
指定された場所に向かうと、颯真はすでにそこで待っていた。窓から差し込む夕日が、廊下全体をオレンジ色に染めている。校舎のざわめきが、遠くからかすかに聞こえてくるだけの、静かな空間だった。
「わざわざ呼び出して、ごめん」
颯真は少し緊張した面持ちで、そう切り出した。
「いえ、大丈夫です」
私も、いつになく緊張していた。
颯真は、しばらく言葉を選ぶように沈黙していた。夕日の光が、彼の横顔を柔らかく照らしている。いつもの余裕のある表情ではなく、真剣で、どこか不安げな色を帯びた顔だった。
「この前、ちゃんと答えられなかったこと、今日は、ちゃんと言いたくて」
颯真はそう前置きしてから、まっすぐに私を見た。一度、息を飲んでから、彼はゆっくりと口を開いた。
あの日、図書室で誰かの告白を受けていたときとは違う。
今は颯真の方が、答えを待つ側だった。
「俺、穂乃果が好き」
その言葉は、これまでのどんな軽口とも違う、まっすぐで、迷いのない響きを持っていた。
私は、その言葉を受け止めきれずに、しばらく動けなかった。ずっと待ち望んでいたはずの言葉だったのに、いざそれを聞くと、頭の中が真っ白になってしまった。
嬉しい、という感情が、まず胸の奥からこみ上げてきた。けれど、それと同時に、これまで彼に振り回されてきた記憶――誰にでも見せていた笑顔、はっきりしない態度、曖昧な言葉の数々――が、頭の中を駆け巡った。
「どういう好き?」
私は、思わずそう問い返してしまった。
颯真は、少し戸惑ったような顔をした。
「え?」
「一ノ瀬くん、誰にでも『好き』って言うでしょ」
その言葉には、これまでの彼への疑念が、そのまま込められていた。図書室で見た告白の場面。「君のことは好きだよ。でも、付き合うのは違うかな」という、あの軽い響きの「好き」。
颯真の表情が、はっきりと変わった。今度は、戸惑いではなく、確かな決意を込めた表情だった。
「違う」
颯真は、はっきりと否定した。
「今まで俺が言ってた『好き』とは、全然違う」
「どう違うんですか」
私は、追及するように尋ねた。ここで曖昧な答えが返ってくるなら、また同じことの繰り返しになる。そんな予感があった。
けれど、颯真は今度は逃げなかった。
「付き合いたい」
はっきりとした言葉が、颯真の口から紡がれた。
「他の誰かじゃなくて、穂乃果がいい」
一つひとつの言葉が、まっすぐに私の胸に届いた。
「穂乃果に、好きになってほしい」
その言葉を聞いた瞬間、私の目に、自分でも制御できないほどの涙が滲んできた。
ずっと聞きたかった言葉だった。曖昧な態度に振り回され、何度も傷つき、それでも諦めきれずに待ち続けていた言葉。
颯真は、私が涙を浮かべているのを見て、少し慌てたような顔をした。
「穂乃果、泣かなくても」
「泣いてません」
そう言い返しながらも、涙は止まらなかった。
夕日の光が、窓の外から差し込んで、廊下全体を茜色に染めていた。その光の中で、颯真の真剣な表情が、いつもよりずっと鮮明に見えた。
けれど、私はすぐに答えを返すことができなかった。
嬉しさと同時に、これまでの数々の出来事――曖昧な態度に振り回され、傷つき、それでも離れられなかった日々――それらが複雑に絡み合って、簡単には言葉にできない感情を作り出していた。
「今すぐ、答えなくてもいいから」
颯真は、私の様子を見て、そう言った。
「でも、ちゃんと考えてほしい」
私は、涙を拭いながら、小さく頷いた。
「……考えます」
それだけを答えるのが、精一杯だった。
颯真は、それ以上何かを求めることはせず、ただ黙って私の返事を待つ姿勢を見せていた。以前の彼なら、もっと強引に答えを迫っていたかもしれない。けれど、今の彼は、私の気持ちを尊重しようとしているのが伝わってきた。
その変化そのものが、彼の言葉の真剣さを、何よりも雄弁に物語っているように思えた。
「今日は、これで」
私は、涙の跡が残る顔のまま、そう言った。
「うん」
颯真は、それ以上引き止めることなく、ゆっくりと頷いた。
踊り場を後にして、階段を下りながら、私は自分の胸の高鳴りを抑えることができずにいた。
――俺、穂乃果が好き。
その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
嬉しい。間違いなく、嬉しい。けれど、この気持ちにどう向き合えばいいのか、答えを出すには、もう少しだけ時間が必要だった。
窓の外では、文化祭の終わりを告げる夕日が、校舎全体を美しく染め上げていた。
その光景を見つめながら、私は自分の中に芽生えた答えを温め始めていた。
校門をくぐると、普段とは違う華やかな装飾と、生徒たちの高揚した空気が校舎全体を包んでいるのがわかった。私たちのクラスのお化け屋敷も、昨日までの準備の甲斐あって、なかなかの出来栄えに仕上がっていた。
「穂乃果、受付シフト、午前中だよね」
美月が確認するように声をかけてきた。
「うん、十時から」
「私は午後だから、また後で交代しに来るね」
美月と別れて、私は教室の入り口で受付の準備を始めた。お化け屋敷は思った以上に評判がよく、開始早々から長い列ができていた。
「間下さん、こっちの誘導お願いできる?」
クラスメイトに頼まれて、私は列の整理に回ることになった。慌ただしく動き回っているうちに、午前中はあっという間に過ぎていった。
颯真とは、その日、ほとんど顔を合わせることがなかった。彼は別の係――確か、校内放送か何かの担当だったはずだ――に回っていて、教室にはあまり姿を見せなかった。
けれど、昼過ぎになって、思いがけないトラブルが発生した。
お化け屋敷の内部で使っていた特殊効果用の機材が、突然動かなくなったのだ。暗闇の中で驚かせる仕掛けの一つで、これが止まってしまうと、お化け屋敷全体の演出に大きな支障が出る。
「どうしよう、配線がどこか切れてるみたいで」
担当していた男子生徒が、困惑した様子で機材を覗き込んでいた。
「電源のトラブルなら、放送室に詳しい人がいるかも」
誰かがそう言った瞬間、私の頭に真っ先に浮かんだのは颯真の顔だった。彼が放送機材の担当をしていることを思い出したからだ。
「一ノ瀬くん、呼んでくる」
気づけば、そう口にしていた。
放送室に駆け込むと、颯真は機材の調整をしているところだった。
「一ノ瀬くん!」
「穂乃果? どうしたの」
「お化け屋敷の機材が壊れて、動かなくなって」
颯真は一瞬で状況を理解したように、すぐに立ち上がった。
「見せて」
教室に戻ると、颯真は手際よく配線を確認し始めた。さすがに放送機材を扱い慣れているだけあって、原因の特定は早かった。
「これ、コネクタが緩んでるだけだと思う。締め直せば直るはず」
颯真はそう言いながら、慣れた手つきで作業を進めていった。数分後、機材は無事に復旧し、教室内から歓声が上がった。
「一ノ瀬くん、ありがとう!」
「助かった!」
クラスメイトたちが口々に感謝の言葉を伝える中、颯真は少し照れくさそうに笑っていた。
「たいしたことしてないよ」
その様子を見ながら、私は複雑な気持ちを抱えていた。颯真が誰かを助ける姿は、以前と何も変わっていない。けれど、その後の彼の態度は、明らかに以前とは違っていた。
機材が復旧した後、颯真はすぐに立ち去ろうとはせず、私の方をちらりと見た。
「穂乃果、後で少し話せる?」
「……はい」
短くそう答えると、颯真は満足げに頷いて、放送室へと戻っていった。
その日の午後、お化け屋敷の企画は無事に終了し、生徒たちは片付けと打ち上げの準備に取り掛かった。校内は文化祭の終わりを惜しむような、賑やかで少し切ない空気に包まれていた。
夕方近く、片付けが一段落したところで、私は颯真からのメッセージを受け取った。
「屋上に近い階段の踊り場に来てくれる? 誰もいないから」
その文面を見て、私は心臓が大きく跳ねるのを感じた。何かが起こる予感があった。
指定された場所に向かうと、颯真はすでにそこで待っていた。窓から差し込む夕日が、廊下全体をオレンジ色に染めている。校舎のざわめきが、遠くからかすかに聞こえてくるだけの、静かな空間だった。
「わざわざ呼び出して、ごめん」
颯真は少し緊張した面持ちで、そう切り出した。
「いえ、大丈夫です」
私も、いつになく緊張していた。
颯真は、しばらく言葉を選ぶように沈黙していた。夕日の光が、彼の横顔を柔らかく照らしている。いつもの余裕のある表情ではなく、真剣で、どこか不安げな色を帯びた顔だった。
「この前、ちゃんと答えられなかったこと、今日は、ちゃんと言いたくて」
颯真はそう前置きしてから、まっすぐに私を見た。一度、息を飲んでから、彼はゆっくりと口を開いた。
あの日、図書室で誰かの告白を受けていたときとは違う。
今は颯真の方が、答えを待つ側だった。
「俺、穂乃果が好き」
その言葉は、これまでのどんな軽口とも違う、まっすぐで、迷いのない響きを持っていた。
私は、その言葉を受け止めきれずに、しばらく動けなかった。ずっと待ち望んでいたはずの言葉だったのに、いざそれを聞くと、頭の中が真っ白になってしまった。
嬉しい、という感情が、まず胸の奥からこみ上げてきた。けれど、それと同時に、これまで彼に振り回されてきた記憶――誰にでも見せていた笑顔、はっきりしない態度、曖昧な言葉の数々――が、頭の中を駆け巡った。
「どういう好き?」
私は、思わずそう問い返してしまった。
颯真は、少し戸惑ったような顔をした。
「え?」
「一ノ瀬くん、誰にでも『好き』って言うでしょ」
その言葉には、これまでの彼への疑念が、そのまま込められていた。図書室で見た告白の場面。「君のことは好きだよ。でも、付き合うのは違うかな」という、あの軽い響きの「好き」。
颯真の表情が、はっきりと変わった。今度は、戸惑いではなく、確かな決意を込めた表情だった。
「違う」
颯真は、はっきりと否定した。
「今まで俺が言ってた『好き』とは、全然違う」
「どう違うんですか」
私は、追及するように尋ねた。ここで曖昧な答えが返ってくるなら、また同じことの繰り返しになる。そんな予感があった。
けれど、颯真は今度は逃げなかった。
「付き合いたい」
はっきりとした言葉が、颯真の口から紡がれた。
「他の誰かじゃなくて、穂乃果がいい」
一つひとつの言葉が、まっすぐに私の胸に届いた。
「穂乃果に、好きになってほしい」
その言葉を聞いた瞬間、私の目に、自分でも制御できないほどの涙が滲んできた。
ずっと聞きたかった言葉だった。曖昧な態度に振り回され、何度も傷つき、それでも諦めきれずに待ち続けていた言葉。
颯真は、私が涙を浮かべているのを見て、少し慌てたような顔をした。
「穂乃果、泣かなくても」
「泣いてません」
そう言い返しながらも、涙は止まらなかった。
夕日の光が、窓の外から差し込んで、廊下全体を茜色に染めていた。その光の中で、颯真の真剣な表情が、いつもよりずっと鮮明に見えた。
けれど、私はすぐに答えを返すことができなかった。
嬉しさと同時に、これまでの数々の出来事――曖昧な態度に振り回され、傷つき、それでも離れられなかった日々――それらが複雑に絡み合って、簡単には言葉にできない感情を作り出していた。
「今すぐ、答えなくてもいいから」
颯真は、私の様子を見て、そう言った。
「でも、ちゃんと考えてほしい」
私は、涙を拭いながら、小さく頷いた。
「……考えます」
それだけを答えるのが、精一杯だった。
颯真は、それ以上何かを求めることはせず、ただ黙って私の返事を待つ姿勢を見せていた。以前の彼なら、もっと強引に答えを迫っていたかもしれない。けれど、今の彼は、私の気持ちを尊重しようとしているのが伝わってきた。
その変化そのものが、彼の言葉の真剣さを、何よりも雄弁に物語っているように思えた。
「今日は、これで」
私は、涙の跡が残る顔のまま、そう言った。
「うん」
颯真は、それ以上引き止めることなく、ゆっくりと頷いた。
踊り場を後にして、階段を下りながら、私は自分の胸の高鳴りを抑えることができずにいた。
――俺、穂乃果が好き。
その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
嬉しい。間違いなく、嬉しい。けれど、この気持ちにどう向き合えばいいのか、答えを出すには、もう少しだけ時間が必要だった。
窓の外では、文化祭の終わりを告げる夕日が、校舎全体を美しく染め上げていた。
その光景を見つめながら、私は自分の中に芽生えた答えを温め始めていた。



