颯真が自分の気持ちを自覚してから、彼の様子には明らかな変化が現れ始めた。
これまでのように、誰にでも同じ熱量で笑いかけ、誰の頼みごとにも無条件で応じるような態度が、少しずつ影を潜めていった。
「一ノ瀬くん、今日一緒に帰らない?」
廊下で声をかけられても、颯真は以前のように愛想よく応じることをしなくなった。
「ごめん、今日はちょっと」
短く断って、それ以上会話を広げようとしない。断られた女子生徒は明らかに戸惑った顔をしていたけれど、颯真はそれ以上、フォローするような言葉を続けることもなかった。
その変化に、教室の空気は少しずつざわつき始めていた。
「一ノ瀬くん、最近ちょっと変わった?」
「そっけなくなったよね」
そんな囁きが、あちこちで聞こえるようになっていた。
私は、その変化を誰よりも近くで感じ取っていた。以前なら、休み時間のたびに私の席の近くまで来て、たわいもない話をしていたはずの颯真が、今は必要以上に近づいてこようとしない。放課後も、以前のように当然のように隣を歩いてくることがなくなった。
距離を置いてほしいと、自分から告げたはずだった。それなのに、実際に距離を置かれると、胸の奥に妙な空白のようなものが広がっていくのを感じた。
「穂乃果、最近静かじゃない?」
美月が、そんな私の様子を心配そうに見ていた。
「べつに、いつも通りだけど」
「一ノ瀬とも、全然話してないみたいだし」
「私が距離置いてって言ったんだから、当然でしょ」
「まあ、そうだけど」
美月は何か言いたげな顔をしていたけれど、それ以上は追及してこなかった。
放課後、図書室に一人で向かう道すがら、私は自分の中の矛盾に気づいていた。
颯真に距離を置いてほしいと告げたのは、他でもない私自身だ。曖昧な態度に振り回されるのに疲れたから、はっきりしない関係を続けることに耐えられなかったから。だから、そう告げた。
なのに、いざ本当に距離を置かれると、寂しさを感じている。
その事実に、私は自分でも呆れてしまった。
図書室に着くと、いつもの窓際の席に、颯真の姿はなかった。以前なら、必ずと言っていいほどそこにいたはずなのに。
私は一人で棚の間を歩きながら、キノコ図鑑を手に取った。けれど、いつものように集中してページをめくることができなかった。頭の中では、颯真のことばかりが浮かんでくる。
彼が誰にでも優しくするのをやめたと聞いて、私は最初、単なる気まぐれだと思っていた。けれど、日が経つにつれ、それが一時的なものではなく、彼自身の意識的な変化なのだということが、次第にわかってきた。
以前の颯真は、誰かに頼られれば断らず、誰かに好意を向けられれば「好きだけど付き合わない」という曖昧な態度で誤魔化していた。それが、彼にとっての処世術だった。嫌われないための、必死の努力だった。
けれど今、その処世術を、彼は自ら手放そうとしている。
その変化の理由を、私はなんとなく察していた。けれど、それを確かめる勇気は、まだ私にはなかった。
数日後、美月が興味深そうに私に耳打ちしてきた。
「ねえ、聞いた? 一ノ瀬、この前も告白されて断ったらしいんだけど、今度は『好きだけど付き合わない』じゃなくて、はっきり『ごめん、他に好きな人がいる』って言ったらしいよ」
その話に、私は思わず手を止めた。
「……そうなんだ」
「毒が抜けたら興味なくなった?」
美月がからかうように、そう聞いてきた。
「な、なに、それ」
「だって、一ノ瀬が前みたいに誰にでも優しくなくなって、ちょっと寂しそうにしてる穂乃果、めちゃくちゃ矛盾してるじゃん」
「べつに、寂しくなんてない」
私は反射的に否定したけれど、美月はにやにやとした笑みを崩さなかった。
「ふーん、そうなんだ」
その反応に、私は言葉に詰まった。
美月の指摘は、的を射ていた。私は颯真の「誰にでも優しい毒キノコ」としての一面に、確かに警戒し、距離を置こうとしてきた。けれど、その一面がなくなってしまうと、今度はそのことに寂しさを覚えている。
自分でも、支離滅裂だと思った。
けれど、その夜、布団の中で考えを整理していくうちに、私は少しずつ、自分の本当の気持ちに気づき始めていた。
私が好きになったのは、単に「みんなに優しい人気者の一ノ瀬颯真」ではなかった。
保健室に付き添おうとする、少し面倒な一ノ瀬颯真。
拓翔と話しているだけで機嫌を悪くする、子どもっぽい一ノ瀬颯真。
嫌われることを極度に恐れて、誰にでも優しくすることでしか自分を守れなかった、不器用な一ノ瀬颯真。
そして、愛想笑いに疲れて、図書室で弱音を吐いていた、素顔の一ノ瀬颯真。
そのどれもが、私にとっては大切な、彼を形作る一部だった。
面倒で、ずるくて、子どもっぽい。そんな彼のことまで、私は好きになっていたのだと、ようやく気づいた。
「毒が抜けたら興味なくなった、なんてことないよ」
私は、誰に言うでもなく、小さくそう呟いた。
むしろ、毒があってもなくても、私はもう、一ノ瀬颯真という人間そのものに、惹かれてしまっているのだと思う。
けれど、彼が変わろうとしているのなら、それを見守ることも、今の私にできる精一杯のことなのかもしれない。
彼が本当に自分の気持ちに向き合って、それをちゃんとした言葉にできる日まで、私はもう少しだけ、待ってみようと思った。
窓の外には、静かな夜空が広がっていた。星の光が、いつもよりわずかに近く感じられた。
これまでのように、誰にでも同じ熱量で笑いかけ、誰の頼みごとにも無条件で応じるような態度が、少しずつ影を潜めていった。
「一ノ瀬くん、今日一緒に帰らない?」
廊下で声をかけられても、颯真は以前のように愛想よく応じることをしなくなった。
「ごめん、今日はちょっと」
短く断って、それ以上会話を広げようとしない。断られた女子生徒は明らかに戸惑った顔をしていたけれど、颯真はそれ以上、フォローするような言葉を続けることもなかった。
その変化に、教室の空気は少しずつざわつき始めていた。
「一ノ瀬くん、最近ちょっと変わった?」
「そっけなくなったよね」
そんな囁きが、あちこちで聞こえるようになっていた。
私は、その変化を誰よりも近くで感じ取っていた。以前なら、休み時間のたびに私の席の近くまで来て、たわいもない話をしていたはずの颯真が、今は必要以上に近づいてこようとしない。放課後も、以前のように当然のように隣を歩いてくることがなくなった。
距離を置いてほしいと、自分から告げたはずだった。それなのに、実際に距離を置かれると、胸の奥に妙な空白のようなものが広がっていくのを感じた。
「穂乃果、最近静かじゃない?」
美月が、そんな私の様子を心配そうに見ていた。
「べつに、いつも通りだけど」
「一ノ瀬とも、全然話してないみたいだし」
「私が距離置いてって言ったんだから、当然でしょ」
「まあ、そうだけど」
美月は何か言いたげな顔をしていたけれど、それ以上は追及してこなかった。
放課後、図書室に一人で向かう道すがら、私は自分の中の矛盾に気づいていた。
颯真に距離を置いてほしいと告げたのは、他でもない私自身だ。曖昧な態度に振り回されるのに疲れたから、はっきりしない関係を続けることに耐えられなかったから。だから、そう告げた。
なのに、いざ本当に距離を置かれると、寂しさを感じている。
その事実に、私は自分でも呆れてしまった。
図書室に着くと、いつもの窓際の席に、颯真の姿はなかった。以前なら、必ずと言っていいほどそこにいたはずなのに。
私は一人で棚の間を歩きながら、キノコ図鑑を手に取った。けれど、いつものように集中してページをめくることができなかった。頭の中では、颯真のことばかりが浮かんでくる。
彼が誰にでも優しくするのをやめたと聞いて、私は最初、単なる気まぐれだと思っていた。けれど、日が経つにつれ、それが一時的なものではなく、彼自身の意識的な変化なのだということが、次第にわかってきた。
以前の颯真は、誰かに頼られれば断らず、誰かに好意を向けられれば「好きだけど付き合わない」という曖昧な態度で誤魔化していた。それが、彼にとっての処世術だった。嫌われないための、必死の努力だった。
けれど今、その処世術を、彼は自ら手放そうとしている。
その変化の理由を、私はなんとなく察していた。けれど、それを確かめる勇気は、まだ私にはなかった。
数日後、美月が興味深そうに私に耳打ちしてきた。
「ねえ、聞いた? 一ノ瀬、この前も告白されて断ったらしいんだけど、今度は『好きだけど付き合わない』じゃなくて、はっきり『ごめん、他に好きな人がいる』って言ったらしいよ」
その話に、私は思わず手を止めた。
「……そうなんだ」
「毒が抜けたら興味なくなった?」
美月がからかうように、そう聞いてきた。
「な、なに、それ」
「だって、一ノ瀬が前みたいに誰にでも優しくなくなって、ちょっと寂しそうにしてる穂乃果、めちゃくちゃ矛盾してるじゃん」
「べつに、寂しくなんてない」
私は反射的に否定したけれど、美月はにやにやとした笑みを崩さなかった。
「ふーん、そうなんだ」
その反応に、私は言葉に詰まった。
美月の指摘は、的を射ていた。私は颯真の「誰にでも優しい毒キノコ」としての一面に、確かに警戒し、距離を置こうとしてきた。けれど、その一面がなくなってしまうと、今度はそのことに寂しさを覚えている。
自分でも、支離滅裂だと思った。
けれど、その夜、布団の中で考えを整理していくうちに、私は少しずつ、自分の本当の気持ちに気づき始めていた。
私が好きになったのは、単に「みんなに優しい人気者の一ノ瀬颯真」ではなかった。
保健室に付き添おうとする、少し面倒な一ノ瀬颯真。
拓翔と話しているだけで機嫌を悪くする、子どもっぽい一ノ瀬颯真。
嫌われることを極度に恐れて、誰にでも優しくすることでしか自分を守れなかった、不器用な一ノ瀬颯真。
そして、愛想笑いに疲れて、図書室で弱音を吐いていた、素顔の一ノ瀬颯真。
そのどれもが、私にとっては大切な、彼を形作る一部だった。
面倒で、ずるくて、子どもっぽい。そんな彼のことまで、私は好きになっていたのだと、ようやく気づいた。
「毒が抜けたら興味なくなった、なんてことないよ」
私は、誰に言うでもなく、小さくそう呟いた。
むしろ、毒があってもなくても、私はもう、一ノ瀬颯真という人間そのものに、惹かれてしまっているのだと思う。
けれど、彼が変わろうとしているのなら、それを見守ることも、今の私にできる精一杯のことなのかもしれない。
彼が本当に自分の気持ちに向き合って、それをちゃんとした言葉にできる日まで、私はもう少しだけ、待ってみようと思った。
窓の外には、静かな夜空が広がっていた。星の光が、いつもよりわずかに近く感じられた。



