「待って」
その一言だけを口にしたまま、颯真はしばらく息を整えていた。校門前の街灯が、彼の顔を斜めに照らしている。夕暮れ時特有の、青みがかった薄闇の中で、彼の表情がいつになく鮮明に見えた。
「……なんですか」
私はなるべく平静を装って尋ねたけれど、声が微かに震えているのが自分でもわかった。
「俺から離れるのだけは、やめて」
颯真は真っ直ぐに私を見つめて、そう言った。これまでの軽やかな口調とはまるで違う、切実な響きを持った声だった。
「それってどういう意味?」
私は、はっきりとした答えを求めて問い返した。もう曖昧なままでは、これ以上前に進めない。そう思っていた。
颯真は口を開きかけた。何かを言おうとして、けれど言葉が出てこないようだった。眉間に力が入り、視線が一瞬泳ぐ。
「……それは」
長い沈黙が流れた。彼が求めている言葉、私が求めている言葉。その両方が、彼の中でうまく形にならないでいるのが見て取れた。
「好き」という、たったそれだけの言葉が、なぜこんなにも出てこないのか。私にはその理由がわからなかった。けれど、颯真自身も、自分の感情の正体を、まだきちんと整理できていないように見えた。
「わからない」
ようやく絞り出したのは、その一言だった。
「わからないって、何が」
「自分でも、この気持ちが何なのか、うまく説明できない」
その答えに、私の胸の中で何かが、静かに崩れ落ちていくのを感じた。
期待していなかったと言えば嘘になる。心のどこかで、彼が「好きだ」とはっきり言ってくれることを、私はずっと待っていたのかもしれない。けれど、返ってきたのは、答えにならない答えだった。
「分からないなら、追いかけないで」
そう言って、私は颯真に背を向けた。
「待って、穂乃果」
「もう、いいです」
私はそのまま、振り返らずに歩き出した。背後から、颯真が何か言おうとする気配があったけれど、結局、追いかけてくることはなかった。
家までの道のりを、私はほとんど何も考えられないまま歩き続けた。涙が出そうになったけれど、なんとか堪えた。ここで泣いてしまえば、自分の気持ちを認めることになる気がして、それが嫌だった。
一方、取り残された颯真は、しばらく校門の前に立ち尽くしていた。
☆
――その翌日。
穂乃果の知らないところで、颯真もまた、自分の気持ちと向き合っていた。
「穂乃果がいないと嫌なんだ」
昼休み、屋上に近い階段の踊り場で、颯真は珍しく深刻な顔をして拓翔にそう零していた。
「他の男といるのも嫌。俺以外に笑うのも嫌」
拓翔はしばらく黙って聞いていたけれど、やがて呆れたようにため息をついた。
「お前、それでまだ分からないの?」
「何が」
「全部、好きって言ってるようなもんじゃん、それ」
颯真は虚を突かれたような顔をした。
「……そう、なのかな」
「そうだよ。むしろ、それ以外の何だと思ってたんだよ」
拓翔の言葉に、颯真はしばらく黙り込んだ。窓の外を眺めながら、何かを整理しようとしているような様子だった。
「俺、今まで誰かのこと、こんな風に思ったことなかったから」
颯真はぽつりと呟いた。
「誰にでも優しくして、誰とも本気にならないようにしてきたから。だから、この気持ちが何なのか、よくわからなかった」
「わからないんじゃなくて、認めるのが怖かったんだろ」
拓翔の指摘は、颯真の核心を突いていた。颯真は反論できずに、ただ黙って俯いていた。
「誰かを本気で好きになるってことは、その人に振られる可能性も、傷つく可能性も、全部引き受けるってことだからな」
拓翔は続けた。
「お前、今まで、そういうリスク全部避けてきたじゃん。誰にでも優しくして、誰も本気で選ばないことで、傷つくことから逃げてきた」
颯真は、拓翔の言葉を否定できなかった。
しばらくの沈黙の後、颯真は小さく、けれどはっきりとした声で言った。
「……俺、穂乃果が好きなんだ」
口にしてから、颯真自身が一番驚いたように黙った。
今まで何度も、誰かに「好き」と言ってきた。
けれど、そのどれとも違った。
その言葉は、誰に向けたものでもなく、まるで自分自身に言い聞かせるような響きを持っていた。
拓翔は、それを聞いて、少し呆れたように、けれどどこか安堵したように笑った。
「やっと言えたな」
「言えたっていうか、今、初めて自分でもちゃんとわかった」
颯真は自分の胸の内を確かめるように、その言葉を繰り返した。
「穂乃果が好きだ」
その言葉を口にした瞬間、颯真の中で、これまでずっと曖昧だったものが、ようやくひとつの形を持ったような気がした。
けれど、同時に、これまでの自分の態度が、どれだけ穂乃果を苦しめてきたのかということにも、颯真は今更ながら気づき始めていた。
誰にでも優しくすることで、誰も傷つけないようにしてきたつもりだった。けれど実際には、その曖昧さこそが、一番大切な人を傷つけていたのだ。
「これから、どうすんの?」
拓翔が尋ねると、颯真はしばらく考え込んでから、穏やかに答えた。
「ちゃんと、伝える」
「今までみたいな、中途半端なやり方じゃなくて」
颯真の目には、これまで見たことのないような、真剣な決意が宿っていた。
けれど、それを実行に移すには、まだもう少しの時間と、覚悟の積み重ねが必要だった。
自分が変わらなければ、穂乃果には信じてもらえない。颯真はそのことを、痛いほど理解し始めていた。
その一言だけを口にしたまま、颯真はしばらく息を整えていた。校門前の街灯が、彼の顔を斜めに照らしている。夕暮れ時特有の、青みがかった薄闇の中で、彼の表情がいつになく鮮明に見えた。
「……なんですか」
私はなるべく平静を装って尋ねたけれど、声が微かに震えているのが自分でもわかった。
「俺から離れるのだけは、やめて」
颯真は真っ直ぐに私を見つめて、そう言った。これまでの軽やかな口調とはまるで違う、切実な響きを持った声だった。
「それってどういう意味?」
私は、はっきりとした答えを求めて問い返した。もう曖昧なままでは、これ以上前に進めない。そう思っていた。
颯真は口を開きかけた。何かを言おうとして、けれど言葉が出てこないようだった。眉間に力が入り、視線が一瞬泳ぐ。
「……それは」
長い沈黙が流れた。彼が求めている言葉、私が求めている言葉。その両方が、彼の中でうまく形にならないでいるのが見て取れた。
「好き」という、たったそれだけの言葉が、なぜこんなにも出てこないのか。私にはその理由がわからなかった。けれど、颯真自身も、自分の感情の正体を、まだきちんと整理できていないように見えた。
「わからない」
ようやく絞り出したのは、その一言だった。
「わからないって、何が」
「自分でも、この気持ちが何なのか、うまく説明できない」
その答えに、私の胸の中で何かが、静かに崩れ落ちていくのを感じた。
期待していなかったと言えば嘘になる。心のどこかで、彼が「好きだ」とはっきり言ってくれることを、私はずっと待っていたのかもしれない。けれど、返ってきたのは、答えにならない答えだった。
「分からないなら、追いかけないで」
そう言って、私は颯真に背を向けた。
「待って、穂乃果」
「もう、いいです」
私はそのまま、振り返らずに歩き出した。背後から、颯真が何か言おうとする気配があったけれど、結局、追いかけてくることはなかった。
家までの道のりを、私はほとんど何も考えられないまま歩き続けた。涙が出そうになったけれど、なんとか堪えた。ここで泣いてしまえば、自分の気持ちを認めることになる気がして、それが嫌だった。
一方、取り残された颯真は、しばらく校門の前に立ち尽くしていた。
☆
――その翌日。
穂乃果の知らないところで、颯真もまた、自分の気持ちと向き合っていた。
「穂乃果がいないと嫌なんだ」
昼休み、屋上に近い階段の踊り場で、颯真は珍しく深刻な顔をして拓翔にそう零していた。
「他の男といるのも嫌。俺以外に笑うのも嫌」
拓翔はしばらく黙って聞いていたけれど、やがて呆れたようにため息をついた。
「お前、それでまだ分からないの?」
「何が」
「全部、好きって言ってるようなもんじゃん、それ」
颯真は虚を突かれたような顔をした。
「……そう、なのかな」
「そうだよ。むしろ、それ以外の何だと思ってたんだよ」
拓翔の言葉に、颯真はしばらく黙り込んだ。窓の外を眺めながら、何かを整理しようとしているような様子だった。
「俺、今まで誰かのこと、こんな風に思ったことなかったから」
颯真はぽつりと呟いた。
「誰にでも優しくして、誰とも本気にならないようにしてきたから。だから、この気持ちが何なのか、よくわからなかった」
「わからないんじゃなくて、認めるのが怖かったんだろ」
拓翔の指摘は、颯真の核心を突いていた。颯真は反論できずに、ただ黙って俯いていた。
「誰かを本気で好きになるってことは、その人に振られる可能性も、傷つく可能性も、全部引き受けるってことだからな」
拓翔は続けた。
「お前、今まで、そういうリスク全部避けてきたじゃん。誰にでも優しくして、誰も本気で選ばないことで、傷つくことから逃げてきた」
颯真は、拓翔の言葉を否定できなかった。
しばらくの沈黙の後、颯真は小さく、けれどはっきりとした声で言った。
「……俺、穂乃果が好きなんだ」
口にしてから、颯真自身が一番驚いたように黙った。
今まで何度も、誰かに「好き」と言ってきた。
けれど、そのどれとも違った。
その言葉は、誰に向けたものでもなく、まるで自分自身に言い聞かせるような響きを持っていた。
拓翔は、それを聞いて、少し呆れたように、けれどどこか安堵したように笑った。
「やっと言えたな」
「言えたっていうか、今、初めて自分でもちゃんとわかった」
颯真は自分の胸の内を確かめるように、その言葉を繰り返した。
「穂乃果が好きだ」
その言葉を口にした瞬間、颯真の中で、これまでずっと曖昧だったものが、ようやくひとつの形を持ったような気がした。
けれど、同時に、これまでの自分の態度が、どれだけ穂乃果を苦しめてきたのかということにも、颯真は今更ながら気づき始めていた。
誰にでも優しくすることで、誰も傷つけないようにしてきたつもりだった。けれど実際には、その曖昧さこそが、一番大切な人を傷つけていたのだ。
「これから、どうすんの?」
拓翔が尋ねると、颯真はしばらく考え込んでから、穏やかに答えた。
「ちゃんと、伝える」
「今までみたいな、中途半端なやり方じゃなくて」
颯真の目には、これまで見たことのないような、真剣な決意が宿っていた。
けれど、それを実行に移すには、まだもう少しの時間と、覚悟の積み重ねが必要だった。
自分が変わらなければ、穂乃果には信じてもらえない。颯真はそのことを、痛いほど理解し始めていた。



