文化祭当日が近づく中、私は昼休みに一人で中庭のベンチに座っていた。教室の喧騒から少し離れたくて、弁当を持ってここまで来ていた。
「隣、座ってもいい?」
声をかけてきたのは、瑠璃子だった。断る理由もなく、私は小さく頷いた。
瑠璃子は隣に腰を下ろすと、しばらく黙って空を見上げていた。それから、ふと思い出したように話し始めた。
「前に、一ノ瀬くんのこと本気にしない方がいいって言ったよね」
「はい」
「あれ、撤回するわけじゃないけど、ちょっと訂正したくて」
瑠璃子はそう前置きしてから、続けた。
「一ノ瀬くんにああいう顔させる人、初めて見た」
「ああいう顔?」
「間下さんのこと話すときとか、間下さんが他の男子と話してるとき見せる顔。あんなに余裕なくすところ、私、一年からずっと一緒にいるけど見たことない」
その言葉に、私は少し驚いた。瑠璃子は颯真と長い付き合いがあると聞いていた。その彼女がそう言うのなら、それは決して大げさな話ではないのだろう。
「一ノ瀬くんって、誰にでも優しいから、みんな自分だけ特別だと思っちゃうの。私もそうだった」
瑠璃子は少し遠い目をして続けた。
「でも、間下さんの場合は違う気がする。あの人が本気で誰かに執着してるとこ、初めて見たから」
その言葉は、私がずっと聞きたかったはずのものだった。自分だけが特別なのかもしれない、という期待を裏付けてくれる言葉。
けれど、実際にそれを聞いても、私の心は思っていたようには晴れなかった。
「……でも、それって、彼女にするとは違いますよね」
私はぽつりと呟いた。
瑠璃子は少し驚いたような顔をしたけれど、すぐに納得したように頷いた。
「そうだね。特別扱いされるのと、ちゃんと選ばれるのは、別の話か」
「はい」
「一ノ瀬くんって、そういうところ、本当にずるいよね。近づいてくるくせに、はっきりしたことは言わない」
瑠璃子の言葉が、私の心の奥にある鬱屈をそのまま代弁しているようで、私は思わず小さく笑ってしまった。
「わかってもらえて、嬉しいです」
「まあ、私も同じ目に遭ってきたからね」
瑠璃子はそう言って、少し寂しそうに笑った。その表情には、単なる同情以上の、彼女自身の複雑な感情が滲んでいるように見えた。
昼休みが終わる頃、瑠璃子は立ち上がりながら言った。
「頑張ってね、間下さん」
その一言を残して、瑠璃子は去っていった。
放課後、いつものように装飾作業をしていると、颯真が当然のように私のそばへやってきた。
「穂乃果、これ手伝って」
「はい」
作業をしながら、私は昼休みの瑠璃子との会話を思い返していた。颯真が本当に自分だけを特別扱いしているという事実は、確かに嬉しいはずのものだった。
けれど、それを知っても、私の心は晴れなかった。
特別扱いをされているのに、彼女ではない。その宙ぶらりんな関係が、むしろ以前よりも苦しく感じられた。特別だと言われるたびに期待して、けれど何も確定しないまま、また不安になる。その繰り返しに、私はもう疲れ果てていた。
作業の手を止めて、私はしばらく颯真の横顔を見つめていた。
「どうしたの?」
颯真が視線に気づいて、こちらを見た。
「一ノ瀬くん」
「なに」
私は深く息を吸い込んだ。ずっと胸の中に溜め込んでいた言葉を、ようやく口にする覚悟を決めた。
「もう、私だけ特別みたいにするのやめて」
その言葉を口にした瞬間、周囲の作業音が、急に遠くに聞こえるような感覚があった。
颯真の表情が、固まった。
いつもの余裕のある笑顔が、完全に消え失せていた。目を見開いたまま、私の言葉を理解しようとするかのように、しばらく動きを止めていた。
「……なんで?」
ようやく絞り出したような声で、颯真はそう尋ねた。
その声には、これまで聞いたことのないような、動揺と戸惑いが色濃く滲んでいた。
私はその質問に、すぐには答えられなかった。理由はいくつもある。特別扱いされながらも、決して彼女にはなれない立場でいることの苦しさ。曖昧な態度に振り回され続けることへの疲弊。そして何より、これ以上この状態を続けたら、自分の気持ちがどうにかなってしまいそうな、そんな恐怖。
けれど、それらのすべてを、今この場で説明する勇気は、私にはまだなかった。
周囲では、他のクラスメイトたちが作業を続けている。誰もこちらに注目していないはずなのに、私は自分の言葉が、想像していたよりもずっと大きな波紋を広げてしまったことを感じ取っていた。
颯真は、何かを言おうとして口を開きかけたけれど、結局何も言葉にできないまま、ただ立ち尽くしていた。
その様子を見ながら、私は自分の胸の中に、後悔とも安堵ともつかない複雑な感情が渦巻いているのを感じていた。
言ってしまった。ずっと抱えてきた本音の一部を、ついに口にしてしまった。
けれど、それによって何かが解決したわけではない。むしろ、これから先の関係が、どう転がっていくのかまったく見当がつかなくなってしまった。
作業を再開する気力もなく、私はただ、固まったままの颯真の顔を見つめ続けていた。
窓の外では、夕方の光が徐々にオレンジ色を濃くしていた。その光に照らされた颯真の表情は、これまで見てきたどんな顔とも違って見えた。
私が投げかけた言葉に、彼はまだ、どう答えればいいのかわからずにいるようだった。
「隣、座ってもいい?」
声をかけてきたのは、瑠璃子だった。断る理由もなく、私は小さく頷いた。
瑠璃子は隣に腰を下ろすと、しばらく黙って空を見上げていた。それから、ふと思い出したように話し始めた。
「前に、一ノ瀬くんのこと本気にしない方がいいって言ったよね」
「はい」
「あれ、撤回するわけじゃないけど、ちょっと訂正したくて」
瑠璃子はそう前置きしてから、続けた。
「一ノ瀬くんにああいう顔させる人、初めて見た」
「ああいう顔?」
「間下さんのこと話すときとか、間下さんが他の男子と話してるとき見せる顔。あんなに余裕なくすところ、私、一年からずっと一緒にいるけど見たことない」
その言葉に、私は少し驚いた。瑠璃子は颯真と長い付き合いがあると聞いていた。その彼女がそう言うのなら、それは決して大げさな話ではないのだろう。
「一ノ瀬くんって、誰にでも優しいから、みんな自分だけ特別だと思っちゃうの。私もそうだった」
瑠璃子は少し遠い目をして続けた。
「でも、間下さんの場合は違う気がする。あの人が本気で誰かに執着してるとこ、初めて見たから」
その言葉は、私がずっと聞きたかったはずのものだった。自分だけが特別なのかもしれない、という期待を裏付けてくれる言葉。
けれど、実際にそれを聞いても、私の心は思っていたようには晴れなかった。
「……でも、それって、彼女にするとは違いますよね」
私はぽつりと呟いた。
瑠璃子は少し驚いたような顔をしたけれど、すぐに納得したように頷いた。
「そうだね。特別扱いされるのと、ちゃんと選ばれるのは、別の話か」
「はい」
「一ノ瀬くんって、そういうところ、本当にずるいよね。近づいてくるくせに、はっきりしたことは言わない」
瑠璃子の言葉が、私の心の奥にある鬱屈をそのまま代弁しているようで、私は思わず小さく笑ってしまった。
「わかってもらえて、嬉しいです」
「まあ、私も同じ目に遭ってきたからね」
瑠璃子はそう言って、少し寂しそうに笑った。その表情には、単なる同情以上の、彼女自身の複雑な感情が滲んでいるように見えた。
昼休みが終わる頃、瑠璃子は立ち上がりながら言った。
「頑張ってね、間下さん」
その一言を残して、瑠璃子は去っていった。
放課後、いつものように装飾作業をしていると、颯真が当然のように私のそばへやってきた。
「穂乃果、これ手伝って」
「はい」
作業をしながら、私は昼休みの瑠璃子との会話を思い返していた。颯真が本当に自分だけを特別扱いしているという事実は、確かに嬉しいはずのものだった。
けれど、それを知っても、私の心は晴れなかった。
特別扱いをされているのに、彼女ではない。その宙ぶらりんな関係が、むしろ以前よりも苦しく感じられた。特別だと言われるたびに期待して、けれど何も確定しないまま、また不安になる。その繰り返しに、私はもう疲れ果てていた。
作業の手を止めて、私はしばらく颯真の横顔を見つめていた。
「どうしたの?」
颯真が視線に気づいて、こちらを見た。
「一ノ瀬くん」
「なに」
私は深く息を吸い込んだ。ずっと胸の中に溜め込んでいた言葉を、ようやく口にする覚悟を決めた。
「もう、私だけ特別みたいにするのやめて」
その言葉を口にした瞬間、周囲の作業音が、急に遠くに聞こえるような感覚があった。
颯真の表情が、固まった。
いつもの余裕のある笑顔が、完全に消え失せていた。目を見開いたまま、私の言葉を理解しようとするかのように、しばらく動きを止めていた。
「……なんで?」
ようやく絞り出したような声で、颯真はそう尋ねた。
その声には、これまで聞いたことのないような、動揺と戸惑いが色濃く滲んでいた。
私はその質問に、すぐには答えられなかった。理由はいくつもある。特別扱いされながらも、決して彼女にはなれない立場でいることの苦しさ。曖昧な態度に振り回され続けることへの疲弊。そして何より、これ以上この状態を続けたら、自分の気持ちがどうにかなってしまいそうな、そんな恐怖。
けれど、それらのすべてを、今この場で説明する勇気は、私にはまだなかった。
周囲では、他のクラスメイトたちが作業を続けている。誰もこちらに注目していないはずなのに、私は自分の言葉が、想像していたよりもずっと大きな波紋を広げてしまったことを感じ取っていた。
颯真は、何かを言おうとして口を開きかけたけれど、結局何も言葉にできないまま、ただ立ち尽くしていた。
その様子を見ながら、私は自分の胸の中に、後悔とも安堵ともつかない複雑な感情が渦巻いているのを感じていた。
言ってしまった。ずっと抱えてきた本音の一部を、ついに口にしてしまった。
けれど、それによって何かが解決したわけではない。むしろ、これから先の関係が、どう転がっていくのかまったく見当がつかなくなってしまった。
作業を再開する気力もなく、私はただ、固まったままの颯真の顔を見つめ続けていた。
窓の外では、夕方の光が徐々にオレンジ色を濃くしていた。その光に照らされた颯真の表情は、これまで見てきたどんな顔とも違って見えた。
私が投げかけた言葉に、彼はまだ、どう答えればいいのかわからずにいるようだった。



