朝、目を覚ました瞬間から、私は自分の中に何か異物が入り込んでいるような感覚を覚えていた。
昨日の夕方、誰もいない教室で自分自身に突きつけた結論が、一晩眠った程度では消えてくれるはずもなく、むしろ朝の光の中でくっきりと輪郭を持って、私の胸の中に居座っていた。
――私、毒キノコに恋してる。
制服に着替えながら、私は鏡に映る自分の顔を見つめた。特に変わったところはない。いつも通りの顔だ。けれど、その内側で動いているものは、昨日までとは決定的に違っていた。
いつも通りに振る舞えばいい。そう自分に言い聞かせながら、私は家を出た。通学路を歩く足取りは、けれど微妙に重かった。まるで、これから何か大きな試練が待ち構えているような、そんな緊張感があった。
教室に入ると、颯真はすでに登校していて、クラスメイトの男子と何か楽しそうに話していた。いつもと変わらない光景だった。誰にでも自然に笑いかけ、誰からも好かれる、あの一ノ瀬颯真の姿。
なのに、私はその姿を視界に入れただけで、心臓が不自然な速さで鼓動を始めるのを感じた。
――落ち着け。
自分の席に着きながら、何度もそう言い聞かせた。昨日までと何も変わらない。ただ、自分の中で気持ちに名前がついただけだ。周りから見れば、何も変化はないはずだ。
「穂乃果、おはよう」
颯真が、いつものように私の席の近くまでやってきた。その一言だけで、私はすでに動揺していた。
「……おはようございます」
なるべく平静を装ったつもりだったけれど、声が少し上ずってしまったのが自分でもわかった。
颯真は特に気にする様子もなく、机に軽く腰かけるようにして話しかけてくる。
「今日、天気いいね」
「そうですね」
「穂乃果、なんか今日、声変じゃない?」
心臓が跳ねた。
「変じゃないです」
「変だよ、ちょっと」
颯真は、興味深そうに私の顔を覗き込んできた。その距離の近さに、私はさらに動揺してしまい、思わず視線を逸らした。
「風邪、ひいてない?」
「ひいてません」
「じゃあ、なんで目、合わせてくれないの」
指摘されて、私はますます居心地が悪くなった。以前なら、こういうやり取りにも軽口で応じることができていたはずなのに、今はそれすらもうまくできない。頭の中で言葉を組み立てようとしても、颯真の顔を見るたびに思考が霧散してしまう。
「合わせてます」
なんとかそれだけ絞り出したものの、実際には、颯真の顔をまともに見ることができないでいた。
「今、絶対逸らしたよね」
「気のせいです」
「気のせいって、穂乃果、最近それしか言わないね」
颯真は少し笑いながら、それ以上は追及せず、自分の席へと戻っていった。その背中を見送りながら、私は詰めていた息をようやく吐き出した。
隣の席から、美月が興味津々な顔でこちらを見ていた。
「穂乃果」
「なに」
「今の、何」
「なにって、何も」
「絶対何かあるでしょ。顔真っ赤だし、目、全然合わせてなかったし」
「普通です」
「普通の人は『おはよう』って言われただけで古典の教科書逆さまに持たないよ」
私は手元を見た。逆さまだった。
「……これは偶然」
「恋すると教科書の上下もわからなくなるんだ」
「まだ何も言ってない!」
「言ってるようなものじゃん」
美月の観察眼は、いつも私が誤魔化そうとしていることを、いとも簡単に見抜いてしまう。私はしばらく黙り込んでから、小さく息を吐いた。
「……授業終わったら、話す」
「え、マジで何かあったんだ」
美月は目を輝かせて、身を乗り出してきた。
「休み時間まで待てないんだけど」
「待って」
「無理、気になりすぎる」
そんなやり取りをしているうちに、朝のホームルームが始まってしまい、私は美月の追及から一時的に解放された。けれど、その安堵も束の間で、授業中も私の頭の中は、先ほどの颯真とのやり取りでいっぱいだった。
――穂乃果、今日、なんか声変じゃない?
その何気ない一言が、なぜこんなにも私の心を揺さぶるのだろう。以前なら、聞き流せていたはずの言葉なのに。
好きだと自覚した瞬間から、彼の一挙手一投足に、これまでとは比べ物にならないほど敏感になっている自分がいた。声のトーン、視線の動き、ふとした仕草。そのすべてが、以前よりずっと鮮明に、そして重く、私の中に入り込んでくる。
休み時間になるなり、美月は約束通り、私の席に飛んできた。
「で? 何があったの?」
周りに聞かれないように、美月は声を潜めて尋ねてきた。私はしばらく躊躇った末、意を決して口を開いた。
「昨日、気づいちゃって」
「何を」
「……私、たぶん、一ノ瀬くんのこと、好きだと思う」
言葉にした瞬間、自分でも驚くほど、それが確かな重みを持って響いた。美月は、しばらく私の顔をまじまじと見つめていた。
「……たぶん、じゃなくて?」
「絶対」
訂正した瞬間、美月の顔に、驚きよりも、むしろ納得したような表情が浮かんだ。
「やっと自覚した」
「やっとって何」
「いや、周りは結構前から気づいてたよ、穂乃果の顔見てれば」
その言葉に、私は少し複雑な気持ちになった。自分自身が気づくまで、こんなにも時間がかかったというのに、周囲にはとっくに見透かされていたということらしい。
「で、これからどうするの」
美月の問いに、私はすぐには答えられなかった。
「どうするって」
「告白するの? しないの?」
「……しない」
「なんで」
「だって、一ノ瀬くんは誰にでも優しいから。私だけが特別だなんて、思い込むのは危険だから」
自分でも、その言い訳が苦しいことはわかっていた。けれど、それ以外の答えを、まだ見つけられずにいた。
美月は、少し呆れたような顔をしたけれど、それ以上深く追及することはなかった。
「まあ、無理には聞かないけどさ」
「うん」
「でも、その気持ち、隠しきれてないと思うよ、今日の様子見てると」
その指摘に、私は反論できなかった。実際、今日の私は、いつもよりずっと感情が顔に出ているらしい。
彼は気づいている。私の態度が変わったことに、はっきりとではないにしろ、気づいている。けれど、その理由までは辿り着いていない。
このまま、いつまで隠し通せるだろうか。
自分の気持ちを自覚してからまだ一日しか経っていないのに、すでに私は、その重さに押し潰されそうになっていた。以前のように、軽口を叩きながら気楽に接することが、もうできなくなっている。彼のちょっとした言葉や仕草に、いちいち動揺してしまう自分を、これからどうやって隠していけばいいのか、まったく見当がつかなかった。
☆
放課後、教室の向こうで笑う颯真を見ながら、私はようやく実感していた。
昨日までと、同じようには見られない。
それだけは、もう誤魔化しようがなかった。
美月が、そんな私の様子を見て、小さく笑った。
「隠すの、下手だね」
「うるさい」
「まあ、頑張って隠しなよ。私は応援してるから」
その言葉に、私は複雑な笑みを返すことしかできなかった。
隠したいのか、それとも、いつかは伝えたいのか。自分でも、その答えはまだはっきりとは見えていなかった。
教室の窓から差し込む夕方の光が、颯真の笑顔を橙色に染めていた。その光景を見つめながら、私は自分の中で膨らみ続ける感情と、これからどう向き合っていけばいいのか、答えの出ない問いを抱え続けていた。
昨日の夕方、誰もいない教室で自分自身に突きつけた結論が、一晩眠った程度では消えてくれるはずもなく、むしろ朝の光の中でくっきりと輪郭を持って、私の胸の中に居座っていた。
――私、毒キノコに恋してる。
制服に着替えながら、私は鏡に映る自分の顔を見つめた。特に変わったところはない。いつも通りの顔だ。けれど、その内側で動いているものは、昨日までとは決定的に違っていた。
いつも通りに振る舞えばいい。そう自分に言い聞かせながら、私は家を出た。通学路を歩く足取りは、けれど微妙に重かった。まるで、これから何か大きな試練が待ち構えているような、そんな緊張感があった。
教室に入ると、颯真はすでに登校していて、クラスメイトの男子と何か楽しそうに話していた。いつもと変わらない光景だった。誰にでも自然に笑いかけ、誰からも好かれる、あの一ノ瀬颯真の姿。
なのに、私はその姿を視界に入れただけで、心臓が不自然な速さで鼓動を始めるのを感じた。
――落ち着け。
自分の席に着きながら、何度もそう言い聞かせた。昨日までと何も変わらない。ただ、自分の中で気持ちに名前がついただけだ。周りから見れば、何も変化はないはずだ。
「穂乃果、おはよう」
颯真が、いつものように私の席の近くまでやってきた。その一言だけで、私はすでに動揺していた。
「……おはようございます」
なるべく平静を装ったつもりだったけれど、声が少し上ずってしまったのが自分でもわかった。
颯真は特に気にする様子もなく、机に軽く腰かけるようにして話しかけてくる。
「今日、天気いいね」
「そうですね」
「穂乃果、なんか今日、声変じゃない?」
心臓が跳ねた。
「変じゃないです」
「変だよ、ちょっと」
颯真は、興味深そうに私の顔を覗き込んできた。その距離の近さに、私はさらに動揺してしまい、思わず視線を逸らした。
「風邪、ひいてない?」
「ひいてません」
「じゃあ、なんで目、合わせてくれないの」
指摘されて、私はますます居心地が悪くなった。以前なら、こういうやり取りにも軽口で応じることができていたはずなのに、今はそれすらもうまくできない。頭の中で言葉を組み立てようとしても、颯真の顔を見るたびに思考が霧散してしまう。
「合わせてます」
なんとかそれだけ絞り出したものの、実際には、颯真の顔をまともに見ることができないでいた。
「今、絶対逸らしたよね」
「気のせいです」
「気のせいって、穂乃果、最近それしか言わないね」
颯真は少し笑いながら、それ以上は追及せず、自分の席へと戻っていった。その背中を見送りながら、私は詰めていた息をようやく吐き出した。
隣の席から、美月が興味津々な顔でこちらを見ていた。
「穂乃果」
「なに」
「今の、何」
「なにって、何も」
「絶対何かあるでしょ。顔真っ赤だし、目、全然合わせてなかったし」
「普通です」
「普通の人は『おはよう』って言われただけで古典の教科書逆さまに持たないよ」
私は手元を見た。逆さまだった。
「……これは偶然」
「恋すると教科書の上下もわからなくなるんだ」
「まだ何も言ってない!」
「言ってるようなものじゃん」
美月の観察眼は、いつも私が誤魔化そうとしていることを、いとも簡単に見抜いてしまう。私はしばらく黙り込んでから、小さく息を吐いた。
「……授業終わったら、話す」
「え、マジで何かあったんだ」
美月は目を輝かせて、身を乗り出してきた。
「休み時間まで待てないんだけど」
「待って」
「無理、気になりすぎる」
そんなやり取りをしているうちに、朝のホームルームが始まってしまい、私は美月の追及から一時的に解放された。けれど、その安堵も束の間で、授業中も私の頭の中は、先ほどの颯真とのやり取りでいっぱいだった。
――穂乃果、今日、なんか声変じゃない?
その何気ない一言が、なぜこんなにも私の心を揺さぶるのだろう。以前なら、聞き流せていたはずの言葉なのに。
好きだと自覚した瞬間から、彼の一挙手一投足に、これまでとは比べ物にならないほど敏感になっている自分がいた。声のトーン、視線の動き、ふとした仕草。そのすべてが、以前よりずっと鮮明に、そして重く、私の中に入り込んでくる。
休み時間になるなり、美月は約束通り、私の席に飛んできた。
「で? 何があったの?」
周りに聞かれないように、美月は声を潜めて尋ねてきた。私はしばらく躊躇った末、意を決して口を開いた。
「昨日、気づいちゃって」
「何を」
「……私、たぶん、一ノ瀬くんのこと、好きだと思う」
言葉にした瞬間、自分でも驚くほど、それが確かな重みを持って響いた。美月は、しばらく私の顔をまじまじと見つめていた。
「……たぶん、じゃなくて?」
「絶対」
訂正した瞬間、美月の顔に、驚きよりも、むしろ納得したような表情が浮かんだ。
「やっと自覚した」
「やっとって何」
「いや、周りは結構前から気づいてたよ、穂乃果の顔見てれば」
その言葉に、私は少し複雑な気持ちになった。自分自身が気づくまで、こんなにも時間がかかったというのに、周囲にはとっくに見透かされていたということらしい。
「で、これからどうするの」
美月の問いに、私はすぐには答えられなかった。
「どうするって」
「告白するの? しないの?」
「……しない」
「なんで」
「だって、一ノ瀬くんは誰にでも優しいから。私だけが特別だなんて、思い込むのは危険だから」
自分でも、その言い訳が苦しいことはわかっていた。けれど、それ以外の答えを、まだ見つけられずにいた。
美月は、少し呆れたような顔をしたけれど、それ以上深く追及することはなかった。
「まあ、無理には聞かないけどさ」
「うん」
「でも、その気持ち、隠しきれてないと思うよ、今日の様子見てると」
その指摘に、私は反論できなかった。実際、今日の私は、いつもよりずっと感情が顔に出ているらしい。
彼は気づいている。私の態度が変わったことに、はっきりとではないにしろ、気づいている。けれど、その理由までは辿り着いていない。
このまま、いつまで隠し通せるだろうか。
自分の気持ちを自覚してからまだ一日しか経っていないのに、すでに私は、その重さに押し潰されそうになっていた。以前のように、軽口を叩きながら気楽に接することが、もうできなくなっている。彼のちょっとした言葉や仕草に、いちいち動揺してしまう自分を、これからどうやって隠していけばいいのか、まったく見当がつかなかった。
☆
放課後、教室の向こうで笑う颯真を見ながら、私はようやく実感していた。
昨日までと、同じようには見られない。
それだけは、もう誤魔化しようがなかった。
美月が、そんな私の様子を見て、小さく笑った。
「隠すの、下手だね」
「うるさい」
「まあ、頑張って隠しなよ。私は応援してるから」
その言葉に、私は複雑な笑みを返すことしかできなかった。
隠したいのか、それとも、いつかは伝えたいのか。自分でも、その答えはまだはっきりとは見えていなかった。
教室の窓から差し込む夕方の光が、颯真の笑顔を橙色に染めていた。その光景を見つめながら、私は自分の中で膨らみ続ける感情と、これからどう向き合っていけばいいのか、答えの出ない問いを抱え続けていた。



