浦部拓海は、今日も逃げていた。
「拓海くーん、待ってくださーい」
背後から聞こえてくる声だけなら、恋愛映画のワンシーンに聞こえなくもない。実際、声の主――水城音姫は、校内でも有名な美少女だった。肩まで流れる黒髪。笑えば柔らかく細くなる目。成績は上位、運動もそこそこ、教師からの評判も悪くない。問題は、その笑顔のまま、拓海の行動予定を本人以上に把握していることだった。
「今日は部活があるから!」
「今日は顧問の先生が研修でお休みです」
「じゃ、じゃあ友達と約束が」
「山田くんなら先ほど帰りました。『今日は浦部とは約束してない』とのことです」
「なんで事情聴取してるんだよ!」
校門を飛び出した拓海は、通学鞄を抱えたまま坂道を駆け下りた。音姫は走っているようには見えない。なのに距離が縮まる。怖い。拓海が彼女を嫌っているわけではなかった。むしろ、普通に話している分には楽しい。幼い頃からの付き合いで、好きな食べ物も、苦手な教科も、雨の日に古傷が痛むことも知っている。拓海が風邪をひけば誰より早くプリントを届け、落ち込めば何も聞かず隣に座ってくれた。だからこそ、ある時期までは本当に仲が良かった。
小学生の頃、拓海はむしろ音姫の後ろをついて歩く側だった。夏祭りで人混みにはぐれかけた時、先に泣きそうになったのは拓海で、音姫は小さな手で彼の手首を掴んだ。
「離したら駄目ですよ、拓海くん」
「音姫の方こそ迷子になるなよ」
「私はなりません。拓海くんを見ていますから」
その頃は、ただ頼もしかった。ラムネを一本ずつ買って、境内の石段に座った。拓海がビー玉を落とせず悪戦苦闘すると、音姫が得意げに瓶を奪った。
「貸してください」
「できるの?」
「できます」
できなかった。二人で五分ほど格闘して、最後には近くの屋台のおじさんに助けてもらった。
帰り道、音姫は悔しそうに唇を尖らせた。
「来年までに練習します」
「ラムネ開ける練習って何だよ」
「拓海くんが困った時に、何でもできるようになりたいので」
今思えば、芽はその頃からあったのかもしれない。けれど当時の拓海にとって、それは少し世話焼きな幼なじみの、可愛い意地にしか見えなかった。雨の日には一本の傘に二人で入り、宿題を忘れれば音姫がノートを見せてくれた。拓海が熱を出した夜には、玄関先へゼリーと漫画を置いて帰った。だから、拓海の中には今でも二人の音姫がいる。笑って隣を歩いていた幼なじみと。笑ったまま逃げ道を全部塞ぐ、現在の音姫。嫌いになれれば簡単だった。好きだった時間が長すぎるから、逃げるしかなかった。
変わったのは、中学二年の冬だった。拓海が別の女子から告白された。断った。それだけの話だった。
翌朝、その女子が転校するという噂が流れた。もちろん音姫が何かした証拠はない。本人も「偶然ですよ」と笑っていた。ただ、その日から音姫は拓海の下駄箱の中身を毎朝確認するようになった。忘れ物をする前に予備を用意するようになった。スマートフォンの充電が切れれば、なぜか同じ機種用のモバイルバッテリーを差し出してくるようになった。そして高校に入る頃には、
「拓海くんが誰と、何分、何を話したか」
を、かなりの精度で把握していた。愛情。そう言われれば、そうなのかもしれない。だが受け取る側には、適量というものがある。音姫のそれは、愛情という名の津波だった。しかも、その津波には予報がなかった。ある朝、拓海がいつもより一本早い電車に乗ると、向かいの座席に音姫がいた。偶然を装って文庫本を開いていたが、本は上下が逆だった。
「……何してるの」
「読書です」
「本、逆さまだぞ」
音姫は一度だけ表紙を確認し、何事もなかったように本を回転させた。
「最近の小説は難しいですね」
「方向の問題だよ!」
また別の日には、拓海が購買で焼きそばパンを買おうとした瞬間、横から同じパンが差し出された。
「売り切れると思って、取っておきました」
「なんで俺が今日これ食べたいって分かった?」
「昨日、焼きそばの広告を二・四秒長く見ていました」
「観察の解像度が怖い!」
そんな毎日だった。親切と監視の境界線を、音姫は笑顔のまま全力疾走していた。
「今日こそ、一緒に帰りましょう?」
「帰ったら何する気だ!」
「夕食を作ります」
「普通だな」
「そのあと、将来設計について話します」
「高校生に住宅ローンの相談を持ちかけるな!」
「子供は二人がいいと思っています」
「付き合ってすらいない!」
「順序は誤差です」
「誤差じゃねえ!」
海辺の遊歩道まで逃げたところで、拓海はついに足を止めた。肺が焼けるようだった。春の海が、夕日を反射して赤く光っている。
「もう無理……」
そのとき、岩場から声がした。
「ずいぶん難儀しておるのう」
「……は?」
大きな亀がいた。拓海は目をこすった。亀はもう一度言った。
「久しいな、拓海殿」
「しゃべった!」
「今さらそこからか」
「いや普通そこからだろ!」
亀には見覚えがあった。数日前、海岸で子供たちにひっくり返されていたところを助けた亀だ。
「お前、この前の」
「左様。名を甲太郎という。その節は世話になった」
「亀に名前があることより、なんで古武士みたいな喋り方なんだよ」
「千年ほど前の流行じゃ」
「千年?」
拓海が聞き返した瞬間、遠くから音姫の声がした。
「拓海くーん」
拓海の肩が跳ねた。甲太郎が同情するように目を細める。
「なるほど。あれから逃げておるのか」
「そうだよ。悪い子じゃないんだ。悪い子じゃないんだけど、重いんだよ! 愛情がブラックホールなんだ!」
「ふむ」
「もう、あいつから逃げられるならどこでもいい。どこかあいつから逃げれる安全地帯を教えてくれ!」
言い切ってから、拓海は一瞬だけ海の向こうを見た。家に帰れば母が夕食を作っている。父はたぶん、居間でニュースを見ながら寝落ちしている。明日は学校があるし、山田には借りた漫画を返していない。全部、明日も続くと思っていた。十七歳にとって日常とは、なくならないものだった。だから「どこでもいい」という言葉に、失う覚悟など一欠片も入っていなかった。ただ今夜だけ、音姫に見つからない場所へ行きたい。その程度の願いだった。甲太郎の目がきらりと光った。
「ならば、良い場所がある」
「どこ」
「竜宮城じゃ。来るか?今日は先日のお礼をしに来たのじゃ」
拓海は三秒考えた。
「行く」
「即答か」
「行く!」
「まだ説明が」
「音姫より怖いものなんてそうそうない!」
「拓海くーん。見つけました」
「来たぁ!」
拓海は甲太郎の甲羅へ飛び乗った。次の瞬間、海面が光った。水に飛び込んだはずなのに息苦しくない。青い光の中を、魚の群れが流星のように通り過ぎる。そして視界が開けた。海底に、巨大な宮殿があった。珊瑚の柱。真珠の灯り。水の中なのに揺れる暖簾。空を飛ぶように泳ぐ魚。それは子供の頃絵本でみたことのある竜宮城そのものだった。
「……本当に竜宮城だ」
「歓迎しよう、拓海殿」
門をくぐる直前、甲太郎が言った。
「だが門をくぐる前に、一つだけ覚えておくがよい」
「何?」
「ここでは、地上と時間の流れが違う」
拓海は足を止めた。
「どれくらい?」
「宮で一年過ごせば、地上ではおよそ千年」
「それと、客人が地上へ戻れるのは、竜宮の一年が過ぎて帰還の門が開いた時だけじゃ」
「途中で帰るのは?」
「できぬ」
普通なら青ざめるところだろう。だが拓海は、ゆっくりと笑った。
「千年?」
「うむ」
「最高じゃん」
甲太郎が固まった。
「……何?」
「千年経てば、さすがに音姫も俺を追ってこないだろ」
口にした瞬間だけ、胸の奥が妙にざわついた。千年。数字としては知っている。歴史の教科書なら何ページも飛ぶ時間だ。けれど十七歳の拓海には、それが「とてつもなく長い」以上の意味を持たなかった。父の顔も、母の声も、昨日くだらない動画を送りつけてきた友人も、その時間の向こうではもういない。そんな当たり前の計算を、彼は意識の外へ押しやった。今はただ、追いかけてくる少女から逃げたかった。甲太郎は何か言いたげに拓海を見た。だが結局、深いため息を一つ吐いただけだった。
「いや、その」
「決めた。しばらくここにいる」
甲太郎は何かを言おうとした。その口が開き、閉じる。
「本当に、よいのじゃな?」
「もちろん」
拓海が門をくぐった、その瞬間だった。宮殿全体を、淡い光の膜が包んだ。
「今のは?」
「結界じゃ」甲太郎が短く答えた。「一度、客人を招き入れた竜宮城は、その日のうちに結界を張る。以後、新たに立ち入ることはできぬ」
「新たにって」
「王族であろうと、人魚であろうと、じゃ。まあ海の民にはここ以外にも色々あるのでな、そうは困らぬがな」
拓海はさほど気にしなかった。自分を追ってくる人間などいないと思っていたからだ。拓海は知らなかった。その頃、地上では。海岸へ辿り着いた音姫が、拓海の消えた海をじっと見つめていた。泣きもせず、叫びもせず。ただ静かに。波打ち際に、結界に入り損ねた一匹の小さな海亀がいた。甲太郎の部下で、不穏な気配を感じた。音姫に見つかったのだ。自分を凝視するその瞳に気づいた瞬間、慌てて逃げようとした。遅かった。音姫の手が、甲羅の縁を掴んでいた。
「亀さん亀さん、亀さんは、拓海くんをどこへ連れていったんですか?」
亀は震えた。
「し、知りませぬ。私めは何も」
「知ってますよね」
優しい笑顔だった。だからこそ、亀は余計に震えた。
「怒ってませんから」
◇
三十分後、亀は洗いざらい話していた。竜宮城。結界。そして、地上と海底で時の流れが違うということ。
「結界って、つまり」
「わ、私めが入ることはできませぬ。今日という日に、竜宮城はもう一人を選んでしまいましたので」
「もう一つ、申し上げねばならぬことが」
小亀が、震えを押し殺すような声で続けた。
「一度、客人として門をくぐれば、帰還の門が再び開くのは、竜宮の一年後。それより早く、地上へ戻ることはできませぬ。つまり地上での千年後でございます」
音姫の表情から、笑みが消えた。追いかけることさえ、許されなかった。
その夜、音姫は浜辺に一人で座り込んでいた。追えない。だが、待つことならできる。問題は、一つだけだった。人間は、千年も待てない。音姫は、拓海が消えた海を見つめた。
「……なら」
小さく呟く。追いつくことができないのなら。千年後まで、ここにいればいい。どうすれば、それができるのか。答えは、まだ知らない。けれど音姫には、一つだけ決まっていることがあった。千年程度では、諦めない。
その日から。水城音姫は、「千年後まで待つ方法」を探し始めた。



