部屋には落ち着いた、しかし緊張感のある静寂が戻っていた。
机に置かれたカップからは、湯気が立ち上る。
ネネティアは、エヴァンの書いた研究論文を改めて机の上に広げた。その瞳には、王都で数々の難事件を解決してきた天才魔導士としての鋭い光が宿っていた。
「エヴ様、私たちが向き合うのは、エヴ様に巣食う危険な『未知の存在』と、この術式ね」
ネネティアの揺るぎない声。エヴァンの瞳も、迷いを振り切ろうとしているようだ。
「ああ、そうだな。摘出の最大の壁は『羅針盤の意思による拒絶反応』だ」
エヴァンもまた机に近づくとネネティアの隣に並んで座った。
「あれはただの魔導具ではない。
意思を持ち、生きている。無理やり引き剥がそうとすれば、拒絶し、周りを焼き尽くす可能性が高い」
エヴァンの言葉に、ネネティアは眉をひそめた。
「……待って、エヴ様」
ネネティアは少し考えていたが、はたと何かを思いついたように顔を上げた。
「なら引き抜く前に、『羅針盤の意識を停止させる』なら?」
「意識を……止める?」
「そう。羅針盤の精神核に直接干渉する『精神同調(メンタル・シンク)』の陣を張るの」
ネネティアは真剣な顔で、論文を見すえる。
「そこで、羅針盤を眠らせる、あるいは意識を失わせる。
そのすきに、論文の術式をすべり込ませて、羅針盤を一気に引き抜く!」
ネネティアの提案を聞き、エヴァンは腕を組んだ。深く思索にふける。その提案は非常に高度で、かつ狂気すれすれの理論だった。
「……たしかに、理論上は可能だな」
エヴァンはゆっくりと顔を上げ、ネネティアをまっすぐに見すえた。
「だが、それをやるには、俺の精神の深層に、ティアの意識が直接踏み込まなければならないよ」
その瞳には、強い懸念と拒絶の色が浮かんでいた。
「そんなことをすれば、ティアの精神まであの羅針盤の呪詛や狂気にとらわれる危険がある。……俺一人ならまだしも、ティアを巻きこむわけにはいかない」
「またそんなこと!」
ネネティアは鋭い視線をエヴァンに返した。
「エヴ様の心でしょ!逃げたくない!」
そして、声を和らげると、エヴァンの大きな手にそっと自分の手を重ねた。
「エヴ様ならなんだって、私、全部受け止める」
言葉と、手のひらから伝わる確かなぬくもりが、エヴァンのこわばっていた心をほどいていく。
エヴァンは苦笑するように目を細め、そして、彼女の手を自分の手でしっかりと包み込み、引き寄せた。
「……本当に仕方のない弟子だよ、ティア」
エヴァンはため息をつき、机に身を乗り出した。
「そこまで言うなら、こうしよう。
俺の精神の深層にもぐる時は、必ず俺の近くにいること。万が一にでも危険になったら、引きはがしてでもティアを逃がす。
……わかったね?」
「わかりました。エヴ様。
もしエヴ様が暴走しそうになったら、私が力づくで正気に戻してあげるね」
「賢くて、勇敢で……まったく、俺を狂わせる才能だけは天下一品だな、ティアは」
エヴァンはネネティアの手をしっかりと握りしめた。
ネネティアをまっすぐに見つめると、覚悟を決めたような表情で、息をのみ込む。
「――聞いてくれ、ネネティア」
エヴァンは低く言った。
短い沈黙が、二人の間を流れた。
「ティアを遠ざけていたのは……、俺のこの羅針盤がいつか君を殺すかもしれない恐怖からだった。
……だが、間違いだったな」
エヴァンの手のひらがネネティアの頬にそっと触れ、名残を惜しむように、壊れ物に触れるように優しくなぞる。彼の指先から熱がネネティアに伝わる。
「誓ってくれるか。
施術中、何がおきても、必ず俺と一緒に生きると。
約束してくれないか」
張り詰めた空気のなか、二人はただ無言で見つめ合う。
その言葉を受け止めきったネネティアは、満ちたりた表情をしていた。
「当たり前です」
ネネティアは両手を伸ばし、エヴァンの首に腕を回した。彼女は自分の額を彼の額に寄せ、うるんだ瞳でまっすぐに見つめ返す。
「私もエヴ様がいないなんて絶対にいや!エヴ様も、もう、私に離れろとか!言わないでね」
「ああ」
静かな部屋の中で二人は、来るべき決戦へ向けて覚悟を固めていった。
机に置かれたカップからは、湯気が立ち上る。
ネネティアは、エヴァンの書いた研究論文を改めて机の上に広げた。その瞳には、王都で数々の難事件を解決してきた天才魔導士としての鋭い光が宿っていた。
「エヴ様、私たちが向き合うのは、エヴ様に巣食う危険な『未知の存在』と、この術式ね」
ネネティアの揺るぎない声。エヴァンの瞳も、迷いを振り切ろうとしているようだ。
「ああ、そうだな。摘出の最大の壁は『羅針盤の意思による拒絶反応』だ」
エヴァンもまた机に近づくとネネティアの隣に並んで座った。
「あれはただの魔導具ではない。
意思を持ち、生きている。無理やり引き剥がそうとすれば、拒絶し、周りを焼き尽くす可能性が高い」
エヴァンの言葉に、ネネティアは眉をひそめた。
「……待って、エヴ様」
ネネティアは少し考えていたが、はたと何かを思いついたように顔を上げた。
「なら引き抜く前に、『羅針盤の意識を停止させる』なら?」
「意識を……止める?」
「そう。羅針盤の精神核に直接干渉する『精神同調(メンタル・シンク)』の陣を張るの」
ネネティアは真剣な顔で、論文を見すえる。
「そこで、羅針盤を眠らせる、あるいは意識を失わせる。
そのすきに、論文の術式をすべり込ませて、羅針盤を一気に引き抜く!」
ネネティアの提案を聞き、エヴァンは腕を組んだ。深く思索にふける。その提案は非常に高度で、かつ狂気すれすれの理論だった。
「……たしかに、理論上は可能だな」
エヴァンはゆっくりと顔を上げ、ネネティアをまっすぐに見すえた。
「だが、それをやるには、俺の精神の深層に、ティアの意識が直接踏み込まなければならないよ」
その瞳には、強い懸念と拒絶の色が浮かんでいた。
「そんなことをすれば、ティアの精神まであの羅針盤の呪詛や狂気にとらわれる危険がある。……俺一人ならまだしも、ティアを巻きこむわけにはいかない」
「またそんなこと!」
ネネティアは鋭い視線をエヴァンに返した。
「エヴ様の心でしょ!逃げたくない!」
そして、声を和らげると、エヴァンの大きな手にそっと自分の手を重ねた。
「エヴ様ならなんだって、私、全部受け止める」
言葉と、手のひらから伝わる確かなぬくもりが、エヴァンのこわばっていた心をほどいていく。
エヴァンは苦笑するように目を細め、そして、彼女の手を自分の手でしっかりと包み込み、引き寄せた。
「……本当に仕方のない弟子だよ、ティア」
エヴァンはため息をつき、机に身を乗り出した。
「そこまで言うなら、こうしよう。
俺の精神の深層にもぐる時は、必ず俺の近くにいること。万が一にでも危険になったら、引きはがしてでもティアを逃がす。
……わかったね?」
「わかりました。エヴ様。
もしエヴ様が暴走しそうになったら、私が力づくで正気に戻してあげるね」
「賢くて、勇敢で……まったく、俺を狂わせる才能だけは天下一品だな、ティアは」
エヴァンはネネティアの手をしっかりと握りしめた。
ネネティアをまっすぐに見つめると、覚悟を決めたような表情で、息をのみ込む。
「――聞いてくれ、ネネティア」
エヴァンは低く言った。
短い沈黙が、二人の間を流れた。
「ティアを遠ざけていたのは……、俺のこの羅針盤がいつか君を殺すかもしれない恐怖からだった。
……だが、間違いだったな」
エヴァンの手のひらがネネティアの頬にそっと触れ、名残を惜しむように、壊れ物に触れるように優しくなぞる。彼の指先から熱がネネティアに伝わる。
「誓ってくれるか。
施術中、何がおきても、必ず俺と一緒に生きると。
約束してくれないか」
張り詰めた空気のなか、二人はただ無言で見つめ合う。
その言葉を受け止めきったネネティアは、満ちたりた表情をしていた。
「当たり前です」
ネネティアは両手を伸ばし、エヴァンの首に腕を回した。彼女は自分の額を彼の額に寄せ、うるんだ瞳でまっすぐに見つめ返す。
「私もエヴ様がいないなんて絶対にいや!エヴ様も、もう、私に離れろとか!言わないでね」
「ああ」
静かな部屋の中で二人は、来るべき決戦へ向けて覚悟を固めていった。

