竜の羅針盤 お硬い師匠の裏の顔は執着心で狂っていました

 あの日から、三日が過ぎていた。
 小屋の中に流れる空気は、これまでとは明らかに違っていた。エヴァンは必要最低限の言葉しか発さず、ネネティアと目を合わせようとしない。話しかけても、返ってくるのは「ああ」「そうか」といった、心のこもらない相づちばかりだった。

 それでも彼女は、あきらめなかった。
 よく眠れずに過ごした目は赤く腫れているが、その奥には強い光が宿っている。
 三日目の夜、彼女は地下室の扉の前に立っていた。ノックをして彼女は深く息を吸い込み、扉を押し開ける。

「エヴ様、ちゃんと話したいです」

 エヴァンは机に向かい、力なく項垂れていた。彼女を見た彼の顔は何の表情も浮かんでおらず、仮面のようだった。

「必要ないよ」

 エヴァンの顔にもこちらと同じように、一睡もしていない疲労の色が刻まれている。
 ネネティアは食い下がった。

「あります。羅針盤のこと、あの論文のこと、聞かせてほしいです」

 エヴァンは大きく息を吐いた。

「ティアには関係のないことだ」

「関係あります!」

 冷ややかな声にもネネティアはひるまなかった。むしろ踏み出して、エヴァンの隣に立つ。

「関係のない話だ」

 繰り返される言葉に、耐えきれなくなったネネティアの声がついに震えた。

「関係ないって!もう!聞き飽きました!」

 それでもネネティアは一歩も引かなかった。
 彼女の瞳には、涙ではなく、すべてを見透かしたかのような思いが宿っていた。

「だって、エヴ様と私は、同じ気持ちだよ」

 揺るぎない声音だった。
 聞いた瞬間、彼の唇がかすかに震え、冷酷な仮面がわずかに割れる。

「……違う」

 かすれた声だった。
 否定は、あまりにも弱く、言い切る前から崩れていた。

「それは、違う……俺は……」

 続けようとした言葉が途切れる。
 ネネティアはエヴァンの目をまっすぐに見つめて続けた。

「エヴ様が、私を失いたくないからって……、あんな嘘、私に通用すると思う?」

 彼が何を取り繕おうとしても、もううまく形にならなかった。

「やめてくれ……ティア……」

「私が、どれほどエヴ様を失いたくないか、エヴ様だってお見通しでしょ」

 静かなネネティアの声。
 エヴァンが何かを言おうとして、息だけがもれる。
 だが、続くはずの言葉は喉の奥で絡まり、音にならない。
 エヴァンはくずれ落ちるように顔を伏せると、机に腕をついた。

――だめだ。彼女を近づけては。

「ネネティア……」

 そう思うのに、視界の端に映る彼女の手が、ひどく近く感じた。
 触れたい、と思ってしまった自分に、エヴァンは息を詰める。

 震える指先が、わずかに持ち上がる。
 けれど彼は、こらえるようにその手を引き戻した。
 この手ですがってしまえば、二度と突き放せなくなる。
 彼の大きな身体が、小さく震える。彼は知らず、大きなため息をついていた。

「……かなわないな」

 しぼり出すような声だった。
 エヴァンは顔を上げると、隠しきれなかった本心をかすれた声でこぼした。

「そのとおりだ。俺が怖いのは……君を失うことだ、ネネティア」

 エヴァンは両腕を伸ばしネネティアの腰を抱き寄せると、その顔を彼女の腹部に押し付け、子供のように力なく息をついた。
 ネネティアは胸をいっぱいにしながら、彼の背中にそっと手を回した。

「痛いくらいに、伝わってるよ」

 彼女は優しく彼の黒髪をなでた。
 エヴァンの肩の力が抜けた。
 ネネティアの腹部に額をあずけたまま、彼は声をもらす。

​「……すまなかった」

​ 謝罪は、胸が締め付けられるほど率直だった。

​「ひどい言葉で、ネネティアを傷つけた」

​「うん、本当にひどかったよ」

​ 言葉は軽い。だがネネティアの表情は暗いままだった。これまでこらえてきたものが、こみ上げているようだ。

​「でも、もうおしまい。これからだって私、エヴ様の隣にいさせてもらいますから」

​ エヴァンはゆっくりと顔を上げ、疲れ果てた目をネネティアに向けた。強がりのかけらもない表情だった。
​ エヴァンは立ち上がると、ためらうことなくネネティアの身体を引き寄せて温もりを抱きしめた。
 ネネティアも安心したように、エヴァンの背中に腕をまわす。頬には、決壊した涙がこぼれていた。
 ネネティアの肩口に落ちるエヴァンの息も、やっと穏やかになっていた。