竜の羅針盤 お硬い師匠の裏の顔は執着心で狂っていました

 静寂に包まれた森の小屋。

 エヴァンは買い出しへと外出した。
 そのすきにネネティアは、地下室へ向かった。

――エヴ様が話してくれないんなら、勝手に見るしか……。

 あの日以来、エヴァンから『もう近づくな』と言われ、足を踏み入れずにいた地下室。
 エヴァンはただ、不幸に流されるだけの人間ではない。
 地下室の床にも鎮静の魔導陣が書かれていた。彼の準備はあれだけではないだろう。

「エヴ様」

 ネネティアの脳裏に、エヴァンのゆがんだ必至の形相がよみがえる。もう、二度とあんな苦痛を味あわせたくはなかった。
 もっと情報が欲しい。彼の胸の羅針盤は、いったい何なのか。

「――ごめんなさい!」

 ネネティアは地下室の扉を開けた。

 部屋にある机の奥をさぐる。
 そして、厳重にしまい込まれていた研究論文を見つけ出した。
 エヴァンの文字だ。

『羅針盤の摘出術式に関する考察』

 ページをめくるネネティアの目は、緊張の色を帯びている。
 そこに記されていたのは、エヴァンの身体をむしばみ続けている『羅針盤を体外に取り出す術式』だった。

――こんな高度な術式を……。

 文字を追ううちに、ネネティアの背筋に冷たいものが走った。
 エヴァンの考察によれば、羅針盤は何らかの意思を持ち、エヴァンの体内にとどまり続けているというのだ。
 ネネティアののどが渇いた。
 体外へと引き抜かれる瞬間にその「意思」がどう暴走するか、予測は一切つかない。万が一、致命的な拒絶反応を示すならば、その場の全員が助かる見込みは皆無に等しい。

 ネネティアならばこの論文の術式を「実行すること自体」は可能だった。

――私がやる!エヴ様を苦しみから救えるんなら!!

 ページに手を置き、決意を固めたその時だった。
 背後の扉が、音もなく開いた。

「――何を見ている、ティア」

 低い、静かな声に振り返ると、そこには買い出しに出たはずのエヴァンが立っていた。

「エヴ様っ!」

 彼の視線が、ネネティアの手元にある論文へと向けられた瞬間、エヴァンの血の気が引いていく。

「それをよこせ、ティア!」

 エヴァンは青ざめ、これまで見せたこともないほどの動揺をあらわにしていた。彼は信じられないほどの早足で歩み寄ると、ネネティアの手から強引に論文を奪い取った。

「勝手に人の研究室をあさるとは!この術式を見たのか!」

「エヴ様……!それ、羅針盤が意思を持ってるって」

「見たのかと聞いているんだよ、ネネティア」

 押し殺したような声だった。
 ネネティアは立ち上がり、エヴァンの目をまっすぐに見すえた。

「……読みました。エヴ様の体から羅針盤を取り出すやり方。無理矢理でごめんなさい」

 正直にうなずくと、エヴァンは目を閉じ、深く長い息を吐いた。大切なものが自分の手からすり抜けていくのを、必死に食い止めようとしているような様子だった。 

「私ならできます。この術式でエヴ様の苦しみをとり出せる」

「バカなことを言うな!」

 エヴァンが声を荒らげた。その表情は恐れにゆがんでいた。

「生きて、意思を持つ呪物を扱うなど……!一歩間違えばティアの命すらも吹き飛ぶような賭けだ!」

「心配なんです、エヴ様……っ!」

 精一杯の想いを込めたネネティアの言葉に、エヴァンは一瞬、表情を揺らがせた。何かを言いかけて、飲み込む。だがそれは、瞬きの間の出来事だった。彼はすぐに、感情を押し殺すように顔を伏せる。

「ふざけるな!」

 エヴァンは怒鳴るように声を張り上げた。その瞳には、かつての優しい師匠の面影はなく、冷酷な拒絶が宿っていた。

「俺がお前をこの森で拾ったのは、ただの気まぐれだ。退屈だったから、……ただの暇つぶしだよ」

 残酷な言葉が、狭い部屋に突き刺さる。
 ネネティアは息を呑んだ。
 眠ってしまった自分にかけてくれた毛布も、黙って淹れてくれたお茶も、この小屋で過ごした温かな時間も。あれら全部が、ただの暇つぶしだと言うのか。

「お前はただの厄介者でしかない。まったくの迷惑だ!」

 エヴァンはさらに追い打ちをかけた。

「俺に構わないでくれ」

 彼のひとことひとことが、ネネティアの心を凍らせていく。喉が、詰まったように動かなくなる。足元が揺れた。

「私は、関係ないってこと……?」

 ネネティアの声は震えていた。
 エヴァンは答えなかった。ただ、視線をそらし、奪いとった論文をととのえ始める。その手つきは、あまりにも淡々としていて、かえって不気味だった。

「……エヴ様」

 呼びかけても、返事はない。ただ、紙を重ねる乾いた音だけが、部屋にひびいていた。
 ネネティアは、その論文に視線を落とした。そこに書かれていた一文――『誰も巻き込むわけにはいかない』が、脳裏に焼き付いて離れない。

 彼は、一人で全てを背負おうとしている。
 その考えが、確信へと変わっていくのを、ネネティアは息を詰めて見つめていた。
 紙の束を胸に抱え、エヴァンがゆっくりと立ち上がる。彼はようやくネネティアの方へ視線を戻した。だがそこにあったのは、これまで一度も向けられたことのない、硬く、冷たい光だった。

「このことは忘れるんだ」

 部屋の空気が、これまで積み重ねてきた二人の時間ごと、音もなく凍りついていく。彼女は返事を失い、ただ立ち尽くすしかできなかった。