ネネティアは震える手で、魔導陣に手をかざした。
――この陣、エヴ様の描き方……、鎮静の魔導陣。
ネネティアは涙をこらえながら唇を引き結び、魔力を陣に流し込む。地下室はまばゆい光で満ちていく。
「今、発動させたよ」
安心させるように、声を出す。
エヴァンの意識は竜化の奔流にのまれていた。
「……ティア」
それでも、薄れゆく意識の中で、彼は最後の力を振りしぼるように、かすれた声でつむいだ。
――絶対に守る。
地下室に満ちた光が収まった後も、エヴァンの容体は予断を許さなかった。
彼の体はまだ、青黒の鱗と、獣じみた荒い呼吸を残したままだ。ネネティアは魔導陣の中央に寝台代わりに毛布を敷く。その毛布の上に彼を横たえた。額に浮かぶエヴァンの汗を布でぬぐう。
「エヴ様……」
返事はない。閉じられた瞼の下で、眼球が忙しなく動いているのが分かる。まるで、何か恐ろしいものと戦っているかのようだ。
ネネティアは彼のシャツの襟元に手をかけた。呼吸を楽にさせるためだった。だが、はだけた胸元を見て、手が止まる。
すべらかな肌があるはずの場所に、無機質な物質が不気味に存在感を放っていた。
「え……」
丸い、金属。文字のような模様が渦巻くように刻まれた、魔導具。
エヴァンの鎖骨の下、ちょうど心臓の少し上あたりに、初めて見る魔導具が埋まり込んでいた。
「羅針盤……?」
ネネティアは頭から血の気が引いていくのを感じていた。
青黒の鱗は、羅針盤から全身に広がっていたようだった。
「何これ。エヴ様の体に羅針盤が埋まってる……?」
ネネティアは信じられないものを見る目で、彼の胸元を凝視する。だが、目の前で起きている竜化と、胸に埋め込まれた羅針盤は、彼女に現実を突きつけていた。
「……見るな」
荒い息を吐きながら、エヴァンがかすれた声で静寂をやぶった。薄く開いた目は苦しげで、焦点が合っていない。それでも彼は、真っすぐにネネティアを捉えていた。
「エヴ様の身体が優先です」
ネネティアは瞳に混乱をたたえながらも、首を振った。
「頑固が、すぎる……」
「お互い様だよ」
ネネティアの手は優しく彼の額をなでていた。エヴァンは弱々しく笑おうとして、失敗する。
エヴァンの体が、再び大きくけいれんする。
「……っ、来る!……離れっ」
言葉の途中で、エヴァンの瞳孔が獣のように縦に裂ける。喉からもれるうめきが、次第に低いうなりへと変わっていった。
「……!!」
ネネティアが呼びかける間もなく、エヴァンの周囲の空気が歪み、目に見えない圧力となって室内に広がる。棚に並んでいた薬瓶が音を立てて震え、壁際の書物が、次々と床に崩れ落ちた。
――このままだと、部屋ごと崩れる!
瞬間的に判断したネネティアは、迷わず両手を前に突き出した。
「――結界、展開」
彼女の手のひらから放たれた光が、エヴァンの体を包み込むように球状に広がる。荒れ狂う魔力の余波が、その薄い膜にぶつかり、火花のように弾けた。
いつかの言葉が、脳裏をよぎる。エヴァンが教えてくれたシールドの基本。
――長くは持たない。維持すればするほど、魔力を根こそぎ持っていかれる。
分かっていながら、ネネティアは歯を食いしばり、意識を集中させ続けた。シールドを丸い結界の形に張り続ける。
先ほど瘴気を出した羅針盤に、エヴァンが使ってみせた技術だった。
「……耐えて」
結界の内側で、エヴァンの体がなおも激しく脈打つ。鱗の広がりが一進一退を繰り返し、時折、獣とも人ともつかない声が漏れる。
ネネティアの額から、玉のような汗が流れ落ちた。魔力が急速に目減りしていく感覚が、指先のしびれとなって伝わってくる。
どれほどの時間が経っただろうか。
やがて、暴れ狂っていた魔力の奔流が、少しずつ、少しずつ収まっていった。うろこが肌の内側へと沈み込み、荒かった呼吸も、次第に静かなものへと戻っていく。
結界の光が消えると同時に、ネネティアはその場にへたり込んだ。
「……おさまっ……たあ」
安堵の息を吐きながら、震える手で、彼女はエヴァンの様子を確かめる。眠るようにまぶたを閉じたその顔は、憑き物が落ちたようにおだやかだった。
「……生きてる」
これまでの緊張が一気にゆるむ。目の奥が熱くなり、ネネティアは彼の手をぎゅっと握りしめた。
数日間の懸命な看病の末、最悪の変異の山場は越えられた。
その間、ネネティアは、エヴァンが心配で満足に眠れなかった。
朝日が差し込む静かな寝室の中で、エヴァンがゆっくりと目を覚ます。
「……ティアか」
ベッドの縁で突っ伏して眠っていたネネティアは、気配に気づくとパッと顔を上げた。
「エヴ様……っ!」
目は寝不足で少し赤く、服の裾も汚れていたが、その顔には心からの安堵の笑みが浮かんでいる。
「体調はどうですか」
「……問題ないようだ」
エヴァンは苦渋に歪んだ顔で、ネネティアを見た。
「ネネティア、……羅針盤を見たんだな」
「……見ました」
彼は静かに、視線を部屋にめぐらせる。
身体が元の状態に戻っていること、部屋が荒れていないこと。ネネティアが片付けたのだろう。目の前の彼女が全力を尽くしてくれたのだ、とエヴァンは悟った。
「助けてくれたことは感謝するよ。ありがとう、ネネティア」
彼はゆっくりと体を起こした。その間に表情を整えると、いつもの穏やかで冷徹な顔をしてネネティアを見すえる。
「だが、無理もしたな。ティアを巻き込みたくはなかったのだがね」
ネネティアの胸にチクリと痛みが走る。
エヴァンはまた師匠の口調に戻っていた。
ネネティアの切実な願いは、今日もまた跳ね返されてしまう。
――でも、エヴ様はあんなに大変なときでも、私を一番に考えてくれてた。
ネネティアは胸の奥の重いものを飲み込み、あえて強気に、少しうるんだ瞳で笑ってみせた。
「天才ネネティア様には、朝飯前ですよ!」
――どんなに壁を作られたって、私、絶対あきらめないから!
ネネティアは決意を新たにしたのだった。
――この陣、エヴ様の描き方……、鎮静の魔導陣。
ネネティアは涙をこらえながら唇を引き結び、魔力を陣に流し込む。地下室はまばゆい光で満ちていく。
「今、発動させたよ」
安心させるように、声を出す。
エヴァンの意識は竜化の奔流にのまれていた。
「……ティア」
それでも、薄れゆく意識の中で、彼は最後の力を振りしぼるように、かすれた声でつむいだ。
――絶対に守る。
地下室に満ちた光が収まった後も、エヴァンの容体は予断を許さなかった。
彼の体はまだ、青黒の鱗と、獣じみた荒い呼吸を残したままだ。ネネティアは魔導陣の中央に寝台代わりに毛布を敷く。その毛布の上に彼を横たえた。額に浮かぶエヴァンの汗を布でぬぐう。
「エヴ様……」
返事はない。閉じられた瞼の下で、眼球が忙しなく動いているのが分かる。まるで、何か恐ろしいものと戦っているかのようだ。
ネネティアは彼のシャツの襟元に手をかけた。呼吸を楽にさせるためだった。だが、はだけた胸元を見て、手が止まる。
すべらかな肌があるはずの場所に、無機質な物質が不気味に存在感を放っていた。
「え……」
丸い、金属。文字のような模様が渦巻くように刻まれた、魔導具。
エヴァンの鎖骨の下、ちょうど心臓の少し上あたりに、初めて見る魔導具が埋まり込んでいた。
「羅針盤……?」
ネネティアは頭から血の気が引いていくのを感じていた。
青黒の鱗は、羅針盤から全身に広がっていたようだった。
「何これ。エヴ様の体に羅針盤が埋まってる……?」
ネネティアは信じられないものを見る目で、彼の胸元を凝視する。だが、目の前で起きている竜化と、胸に埋め込まれた羅針盤は、彼女に現実を突きつけていた。
「……見るな」
荒い息を吐きながら、エヴァンがかすれた声で静寂をやぶった。薄く開いた目は苦しげで、焦点が合っていない。それでも彼は、真っすぐにネネティアを捉えていた。
「エヴ様の身体が優先です」
ネネティアは瞳に混乱をたたえながらも、首を振った。
「頑固が、すぎる……」
「お互い様だよ」
ネネティアの手は優しく彼の額をなでていた。エヴァンは弱々しく笑おうとして、失敗する。
エヴァンの体が、再び大きくけいれんする。
「……っ、来る!……離れっ」
言葉の途中で、エヴァンの瞳孔が獣のように縦に裂ける。喉からもれるうめきが、次第に低いうなりへと変わっていった。
「……!!」
ネネティアが呼びかける間もなく、エヴァンの周囲の空気が歪み、目に見えない圧力となって室内に広がる。棚に並んでいた薬瓶が音を立てて震え、壁際の書物が、次々と床に崩れ落ちた。
――このままだと、部屋ごと崩れる!
瞬間的に判断したネネティアは、迷わず両手を前に突き出した。
「――結界、展開」
彼女の手のひらから放たれた光が、エヴァンの体を包み込むように球状に広がる。荒れ狂う魔力の余波が、その薄い膜にぶつかり、火花のように弾けた。
いつかの言葉が、脳裏をよぎる。エヴァンが教えてくれたシールドの基本。
――長くは持たない。維持すればするほど、魔力を根こそぎ持っていかれる。
分かっていながら、ネネティアは歯を食いしばり、意識を集中させ続けた。シールドを丸い結界の形に張り続ける。
先ほど瘴気を出した羅針盤に、エヴァンが使ってみせた技術だった。
「……耐えて」
結界の内側で、エヴァンの体がなおも激しく脈打つ。鱗の広がりが一進一退を繰り返し、時折、獣とも人ともつかない声が漏れる。
ネネティアの額から、玉のような汗が流れ落ちた。魔力が急速に目減りしていく感覚が、指先のしびれとなって伝わってくる。
どれほどの時間が経っただろうか。
やがて、暴れ狂っていた魔力の奔流が、少しずつ、少しずつ収まっていった。うろこが肌の内側へと沈み込み、荒かった呼吸も、次第に静かなものへと戻っていく。
結界の光が消えると同時に、ネネティアはその場にへたり込んだ。
「……おさまっ……たあ」
安堵の息を吐きながら、震える手で、彼女はエヴァンの様子を確かめる。眠るようにまぶたを閉じたその顔は、憑き物が落ちたようにおだやかだった。
「……生きてる」
これまでの緊張が一気にゆるむ。目の奥が熱くなり、ネネティアは彼の手をぎゅっと握りしめた。
数日間の懸命な看病の末、最悪の変異の山場は越えられた。
その間、ネネティアは、エヴァンが心配で満足に眠れなかった。
朝日が差し込む静かな寝室の中で、エヴァンがゆっくりと目を覚ます。
「……ティアか」
ベッドの縁で突っ伏して眠っていたネネティアは、気配に気づくとパッと顔を上げた。
「エヴ様……っ!」
目は寝不足で少し赤く、服の裾も汚れていたが、その顔には心からの安堵の笑みが浮かんでいる。
「体調はどうですか」
「……問題ないようだ」
エヴァンは苦渋に歪んだ顔で、ネネティアを見た。
「ネネティア、……羅針盤を見たんだな」
「……見ました」
彼は静かに、視線を部屋にめぐらせる。
身体が元の状態に戻っていること、部屋が荒れていないこと。ネネティアが片付けたのだろう。目の前の彼女が全力を尽くしてくれたのだ、とエヴァンは悟った。
「助けてくれたことは感謝するよ。ありがとう、ネネティア」
彼はゆっくりと体を起こした。その間に表情を整えると、いつもの穏やかで冷徹な顔をしてネネティアを見すえる。
「だが、無理もしたな。ティアを巻き込みたくはなかったのだがね」
ネネティアの胸にチクリと痛みが走る。
エヴァンはまた師匠の口調に戻っていた。
ネネティアの切実な願いは、今日もまた跳ね返されてしまう。
――でも、エヴ様はあんなに大変なときでも、私を一番に考えてくれてた。
ネネティアは胸の奥の重いものを飲み込み、あえて強気に、少しうるんだ瞳で笑ってみせた。
「天才ネネティア様には、朝飯前ですよ!」
――どんなに壁を作られたって、私、絶対あきらめないから!
ネネティアは決意を新たにしたのだった。

