竜の羅針盤 お硬い師匠の裏の顔は執着心で狂っていました

 書庫の掃除に一区切りつけた昼下がり。静寂の中に、不穏な怪しい人影がさした。

「やっと見つけたぞ」

 鉛色の空が、辺境の里を底冷えさせるようにおおっている。
 ネネティアは夕飯のパンの紙袋を抱えたまま振り向いた。

「誰……?」

「とぼけるな。間違いなくお前だ……『見えない宝物庫』の呪いを解きやがった魔術師め」

 ​男たちの放つ殺気は尋常ではない。怨みと狂気が混ざり合い、肌を刺すようなプレッシャーとなってネネティアに重くのしかかる。

 ネネティアは大きく息を吐いた。

「記憶にないけど」

 紙袋を岩の上にゆっくり置く。髪をまとめていたリボンを解くと、近くの木の枝に静かに結びつけた。

「殺れ!」

 低い合図とともに、猛烈な奇襲が始まった。空を切るナイフ、足元に刺さる矢。圧倒的な暴力に追いつめられ、ネネティアはいつしか深い森の奥へと追い込まれる。
 鬱蒼とした木々の中で不気味に開かれた場所に、彼女は立っていた。

「かかったぞ!」

 ネネティアの足元には魔導陣が描かれている。転移の魔導陣。
 完全にはめられたのだ!

「うわっ、何これ!」

「我々の最高傑作だよ!お前を拉致する!!」

 ネネティアの足元で、魔導陣から黒いもやが立ちのぼりはじめた。
 ネネティアの顔がゆがむ。

​「……美しくないっ」

「何だと?」

 ネネティアはつま先を動かすと、一筆で魔導陣を書き換えた。
 一瞬の後、あふれていた黒いもやが魔導陣に吸い込まれ、あたりの空気が清浄に戻っていく。

「反転させちゃお」

 直後、空間が歪む……!
 魔導陣から森の中へ、さまざまなものが吐き出されていく。革張りのソファ、高級そうだが趣味の悪い花瓶、金ピカの銅像……。

「アジトの家具だ!」

 男たちの拠点に置かれていたおぞましい荷物が、次々と森の中へ吐き出されていく。

「私とエヴ様の時間を奪うクズは、この世にいらない……!」

 ネネティアが差し出した片手の前で、轟音とともに魔力が奔流となり集まった。それはあっという間に炎となり、うねる業火となった。

「……リボンを見て追ってきたが……心配なかったようだね」

 いつの間にかエヴァンが、心底安心した顔をして背後に立っている。片手には、ネネティアがおいてきた紙袋、反対の手にはミルクの入った容器を持っていた。

「ひ、ひいーっ!二度と近づきません」

 絶望的な熱量と圧倒的な力の奔流の前に、男たちの精神は完全に粉砕される。
 彼らは土下座せんばかりの勢いで、一目散に去って行った。

「持久戦にならなくてホッとしました!」

 ネネティアはエヴァンを振り返ると、茶目っ気たっぷりに笑った。

「正直、倒しきれるか怪しかったから。書庫の掃除でクタクタだもん」

 エヴァンは複雑な表情になると、深くため息をついた。

「買い物に出たと思ったら、これだ」

 腕に力が入っていたことに気づき、彼は紙袋を持ち直す。

「来てくれるって分かってました、エヴ様!」

 両手を広げてみせるネネティアも、すっかり緊張がほどけているようだ。
 エヴァンは説教の一つでも言うつもりだったが、その表情を見てしまうと何も言えなくなった。

「さあ、帰ろう」


 夕暮れ。
 二人で買ってきた食事と、食後のあたたかいお茶ですこし息を吹き返したあと。
 ネネティアはふと気づいた。席を外したエヴァンの帰りが遅い。
 こういうときは、決まっている。

「しょうがないエヴ様ー」

 ネネティアはカップを置いてため息をつくと、椅子から立ち上がった。

 通路をそっとのぞきこむと、案の定、書庫へ向かって歩いていくエヴァンの背中が見えた。
 ネネティアは小さく息をのみ、すそを揺らして駆け寄る。
 そしてそのまま、彼の前へくるりと回りこんで立ちはだかった。

「センセイ」

 逃がさない、とでも言うように。
 ネネティアは壁に片手をついて、エヴァンの行く手をふさいだ。

「ティア!」

 思いがけない行動だったのだろう。
 エヴァンがわずかに目を見開く。
 その反応がうれしくて、ネネティアは満足そうに唇をほころばせた。

「夜の作業は禁止です」

 きっぱり告げると、エヴァンは首をかたむけた。

「竜文字辞典シリーズの半分が、まだ片付いてないんだよ」

「働きすぎ」

 ネネティアの声はどこか弾んでいた。

「それともセンセイ、もっと私に、ここに閉じ込められたいですか?」

 冗談めかした言葉のはずなのに、自分で口にした途端、胸が甘くなった。
 いたずらっぽく目を細め、試すような眼差しでエヴァンを見つめる。

「……」

 エヴァンは何も言わなかった。
 壁のほうへ視線を向けたその横顔が、ほんのり赤い気がして、ネネティアの心臓がゆれた。

 そして、エヴァンはあきらめたように小さく息をつく。

「……仕方ない、明日にしよう」

「そうしましょう!」

 ぱっと顔を輝かせたネネティアを見て、エヴァンはあきれたように笑った。
 ネネティアは広がるうれしさを抱えたまま、自然と彼の隣に並んだ。

「お茶が冷めちゃいますよ」

「強引な弟子だよ」

 並んで歩く夜の廊下は静かで、窓から差しこむ淡い月明かりが、二人の影を寄り添わせるように床へ落としていた。