竜の羅針盤 お硬い師匠の裏の顔は執着心で狂っていました

 エヴァンは夜空を見上げながら、胸のボタンを外した。
 そこには、自分の胸に埋まりこむようにして、金属の円盤があった。文字のような文様が渦を巻き、中央には玉が埋め込まれている。そこから伸びる針のような部分は板に固定されたように動かない。
 羅針盤だ。
 彼の内側に住みついた、もう一つの存在だった。

 夜になると、あの日の記憶が嫌でもよみがえる。


 それは、羅針盤が胸に埋まったあの夜のことだ。
 あの日、静けさの中、遺跡の最奥は時が止まったかのようだった。崩れた石壁の隙間から差し込む光が、ほこりの粒子を青く照らす。

 エヴァンは遺跡の調査でここを訪れていた。

 突然、大量の光が胸の前に現れる。紫金色のその光は、ためらいなく彼の肌の内側に吸い込まれていく。
 エヴァンはよろめき、膝をついた。

「ぐ……なんだ、今の……めまいは」

 ​直前まで、彼は壁面に刻まれた古代文字の拓本をとっていたはずだった。
 脳裏に流れ込んできたのは自分のものではない記憶。見たこともない奇岩の群、水辺の匂い、そしてひたすらに移動しようとする強烈な意志のうねり。

​『――違う。ここじゃない。ここは……どこだ?』

 光が集まった胸の奥が焼けるように熱い。全身の血管を灼熱の炎が走り回っているようだった。

 エヴァンはよろよろと立ち上がり、自分の胸元に手をやった。鼓動が狂ったように早い。いや、違う。自分の心音のほかに、もう一つ、規則正しくも冷たい「別のリズム」が胸の奥で刻まれている。

――なんだこれは……!

 エヴァンの胸元に、何かが埋まり込んでいた。
 ​彼は慌ててランタンの光を自分の胸元に向ける。しかし、服の上からは何も見えない。ただ、皮膚の下で、チリチリと微弱な電流が走るような生々しい感覚がある。

 意識を引きずるようにして、やっとの思いでエヴァンは遺跡から踏み出した。

『――目標座標設定、再試行を開始する』

 だがちょうどその時、制御を失った羅針盤の魔力があふれ出す。あふれ出したのはほんの少量の魔力だった。
 周囲の木々は数本なぎ倒され、地面に穴が空いている。同時に自分の喉からもれた、まるで竜の咆哮にも似た音にエヴァンは戦慄した。

「くそ……っ、シールド——!」

 エヴァンは反射的に結界の板を出した。
 羅針盤からあふれ出た魔力を受けた板は、割れる。
 たった数秒張った結界だったが、エヴァンの魔力はごっそり持っていかれて、視界が端から白くなり始める。

 胸から首筋にかけての皮膚に青黒いうろこが浮かび上がる。

「……っ!」

 遺跡の石壁や木々がやけに近く、もろく見えた。
 徐々に薄れゆく意識のはしで、エヴァンは感じる。

――何か、が、俺の中に入ってきている。

 皮膚を突き破る痛みが全身を駆け抜け、エヴァンの視界は、底知れない闇の色へと塗り潰されていったのだった。


「……俺が、やったのか……」

 次に気がついたときには、森は無残な姿になっていた。地面はくぼみ、大木が何本も幹から折れ、生木の匂いがあたりに漂う。
 自分の手が、意思とは無関係に周囲を薙ぎ払っていたのだった。

 あれ以来、彼の体には得体のしれないものが住み着いている。
 時折、それは発作のように制御を失い、暴走する。
 いつ、誰を傷つけるか分からない。いつ、自分が壊れるのかも。

――自分はもう人と深くかかわるべきではない、相手が誰であっても。

 かつて、森で拾った小さな少女は、今もずっと自分をしたってくれている。特に彼女だけは傷つけるわけにいかない。
 エヴァンはそう思いながら、服のボタンを留めた。

 壁の向こうでネネティアが寝返りをうつ音がした。
 エヴァンはしばらく、音のしたほうをじっと見つめていたが、やがて何も言わずにまた暗い夜空へ視線を戻した。

 その横顔はひどくさみしげだった。