竜の羅針盤 お硬い師匠の裏の顔は執着心で狂っていました

 ネネティアの視界から地下室の光景が消え去り、代わりに広がったのは、どこまでも続く深い藍色の空間だった。星のような光の粒が、無数に瞬いている。

――ここが、エヴ様の内側。

 遠くから、獣の咆哮のような轟音がきこえてきた。

「ティア!」

 声のする方を振り返ると、エヴァンの姿があった。だがその輪郭は、時折、うろこに覆われた巨大な竜の影と重なるように揺らいでいる。

「エヴ様!」

「……ここは、危険だ。羅針盤の意志が、ティアを排除しようとしている」

 言い終わるより早く、周囲の光の粒が、渦を巻きながら牙のような形へと変わり、二人に向かって殺到してきた。

「!」

 ネネティアはとっさに両手を掲げ、現実世界と同じように結界を展開する。だがここは精神の世界。実体を持たないはずのその一撃は、まるで刃物のような鋭さで結界を叩いた。

「きゃっ……」

 衝撃に、ネネティアの意識そのものがきしむような痛みを覚えた。単なる魔力の消耗とは違う。精神そのものが、直接削られている感覚だった。

――精神ダイブは、施術する側もされる側も、精神が壊れる可能性が高い。

 あの日、エヴァンが自分に語った警告が蘇る。

「ティア――!」

「まだ、いけます!」

 ネネティアは崩れかけた結界に力を注ぎ込んだ。
 牙の群れは止まらず、次から次へと打ち付けてくる。視界の端がノイズのようにゆがみ始める。まるで自分自身が、誰か別の存在に塗り替えられていくような、そんな恐ろしい感覚があった。

――だめ!意識をたもって!

 自分に言い聞かせながら、ネネティアは深く息を吸い込み、エヴァンの方へ手を伸ばした。

「エヴ様!私の意識に、繋がって!」

「――駄目だ、巻き込まれる!」

「ここです!」

 叫びながら、彼女はエヴァンの手をつかんだ。触れた瞬間、二人の意識が深く混ざり合っていく。
 視界が一変した。

 瞬間、圧倒的な情報の津波が彼女をおそう。
 エヴァンと何者かの記憶。
 視界に飛び込んでくるいくつかの光景は、ネネティアの精神を激しく揺動させた。

――エヴァンの、両親を失った悲しみ。

――たった一人で冷たい森の家で孤独に過ごしてきた幼少期。

――人間と出会った竜が優しい陽だまりの中で温かく過ごした日。

――美しかった世界が人間の果てしない争いと破壊によって荒廃する中、疲弊しきった末に深い眠りについた竜。

 あまりにも膨大で切ない精神世界の孤独の重さに、ネネティアの意識は押しつぶされそうになる。

――……耐えるっ! ここを抜ければ、核心にたどり着くはず!

 自分を鼓舞し、さらに精神の奥へ進もうとしたその時だった。
​ エヴァンの姿が激しく揺らぎ、プツリと途切れた。気配が消え去る。

「エヴ様!!!?」

 何かが起きたのだ。
――時間がない!!

 ネネティアに不安が襲いかかった。
 その時。
 目の前に巨大な影がゆっくりと立ちはだかる。
 それは空間を引き裂くような圧倒的な威圧感をまとっていた。

 竜だ。

 深い藍の闇の中で、金色の双眸だけが灼けつくように光っている。
 その瞳に映った瞬間、自分という存在の輪郭が、ひどく小さく、頼りないものに思えた。

 それでも、ネネティアは足を止めなかった。

 竜は首をもたげ、彼女を見下ろした。
 その姿はあまりにも巨大で、鱗の一枚一枚に、気の遠くなるような歳月の冷たさが宿っているようだった。
 永い永い孤独と、喪失と、誰にも触れられぬまま積み重なった痛み。

 地の底から響くような声が、精神空間を震わせる。

「……侵すか」

 それは意思そのものの震動だった。

「我が眠りを。
 我が巣を。
 我が、拠り所を」

 金の瞳がネネティアを射抜く。

「我は原初の竜。去れ。人の子。
 さもなくば、おまえの心を砕き、ここで永久に閉じこめる」

 ネネティアの足元に走る光がきしみ、意識の表面がざらつくように削られていく。
 気を抜けば、自分がなくなってしまいそうだった。

 それでも、彼女はまっすぐに竜を見返した。
 膝が震えそうになるほど恐ろしい。
 けれど、それ以上に強い感情が、ネネティアの胸には燃えていた。

「あなたがどれほど長く、ひとりで痛みを抱えてきたのか、私にはわからない」

 竜の瞳が、わずかに細められる。

「だからって、エヴ様の心も身体も、居場所にしていい理由にはならない」

 ネネティアは一歩、前へ出た。
 その小さな足取りに呼応するように、彼女の精神体が淡い光を帯びていく。

「『竜の羅針盤』、だとしても……!」

 ネネティアはその巨大な竜をまっすぐに見すえた。

「原初の竜よ!」

 爆発的な魔力が、星屑のように空間全体へと展開される。

「ふかふかのベッドで大人しく眠りなさいっ!」

 それは精神世界を優しく、しかし絶対的な強制力で包み込む「鎮静の結界」だった。

――あの優しい陽だまりの日……!

 ネネティアは記憶の濁流の中で掴んだ、あの日の思い出を触媒にする。

「眠り、か……」

 竜の怒りの奔流は、内側から優しく包み込まれていった。
 それは一瞬にして、竜の目から怒りを取り除いていく。

「久しく忘れていた……」

 暴れていた竜の意識が糸が切れたように静まりかえり、やがて深い、おだやかな眠りへと落ちていった。
 最後に竜は、ネネティアの向こうを透かすように、どこか遠くを見た。
 それが失われた誰かを見ていたのか、かつての空を見ていたのかはわからない。

 次の瞬間、その巨体は光の粒となって、静かに崩れていった。

 精神の荒波が、ぴたりと止んだ。

「今だ……!」

 遠くから、かすれたエヴァンの声が届いた。


 現実世界の魔導陣の上。

 結界の内側ではなお、紫の残滓が火花のように散っていた。
 エヴァンの胸元――羅針盤が埋め込まれていた場所に、淡い光の亀裂が走っている。

「エヴ様……!」

 ネネティアは目を開けると、震える手をその胸元へ差し伸べた。
 熱い。
 羅針盤そのものが、最後の力でしがみついているようだった。

「外れて……っ!」

 ネネティアは術式の最後の一節を叩き込む。
 光の亀裂が一気に広がり、エヴァンの胸元から、眩い紫金の閃光が噴き上がった。

「――っ!!」

 次の瞬間。
 エヴァンの身体をおおっていた禍々しいうろこは、潮が引くように綺麗に消え去っていった。

「……うっ」

 エヴァンがゆっくりと目を開ける。
 開かれた瞳は、獣の赤色ではない。
 それはいつものおだやかな、しかし疲労の色に染まったエヴァンの瞳だった。

「エヴ様……やりきりました」

 ネネティアは握り込んだ『竜の羅針盤』を力なくかかげてみせる。
 ほんの少し前まで、エヴァンの胸に埋まっていた、あの羅針盤だった。

 緊張の糸が切れたネネティアの体が、大きく揺らいだ。

「ティア!」

 崩れ落ちる寸前、エヴァンが彼女を抱き止める。腕の中で、ネネティアの意識がゆっくりと閉じていく。

「よか……た」

 消え入りそうな声でつむがれたその言葉を最後に、彼女の体から力が抜けた。エヴァンは、その細い体をしっかりと胸に抱き寄せる。

「ああ。……ああ、成功した」

 声が、震えていた。
 自分のものではない脈動が消え去り、エヴァンの体はとても軽かった。

「よく、頑張った。……本当に、よく頑張ってくれたな、ティア」

 エヴァンは眠るネネティアを、そっと腕の中に抱え直した。二人分の乱れた呼吸だけが、静かになった空間に響いている。

 いつの間にか夜が明けかけていた。淡い朝の光が、静かに、二人の姿を照らし始めていた。