竜の羅針盤 お硬い師匠の裏の顔は執着心で狂っていました

「……ごちそうさま。とても美味しかったよ、ティア」

「完璧に調合しましたからね」

 ネネティアの軽口に、エヴァンは優しく微笑んだ。
 彼は立ち上がったネネティアの手首をそっと引き、自分の膝の上に座らせる。

「エヴ様……?」

 エヴァンはネネティアの銀髪に顔を埋めた。
 彼はその甘い香りを胸いっぱいに吸い込む。

「少しだけ、こうさせてくれ」

 二人は不安や恐怖をかき消すように、お互いの体温を確かめ合った。

「ティア、終わったら、二人で町に出よう」

「え!それって、もしかしてデートですか」

「ああ」

「絶対です。約束!楽しみにしてますから」


 昼下がり、二人は森の奥にある広大な魔導陣の前に立っていた。
 丸一日を準備に費やし、いよいよ術式の最終確認が終わった。

 ネネティアの横顔を、エヴァンはふと見つめた。真剣な表情の中ににじむ、あどけなさとたくましさ。彼女は本当に多くのものを積み重ねてきたのだと、改めて実感する。

「始めよう。まずは俺が羅針盤の精神と繋がる」

 エヴァンは魔導陣の中央に横たわった。

「はい。エヴ様」

 エヴァンは息を整える。
 彼は自らの体内に眠る未知の存在をターゲットに、「精神接続」の詠唱を開始した。
 魔導陣がまばゆい光を放ち、エヴァンの精神が、体内の羅針盤の精神と接続された。

「こ、れは……っ」

 途端に、エヴァンの脳裏へすさまじい量の記憶が濁流となって流れ込んでいく。
 額に汗を浮かべながらも、彼はしっかりと目を開け、ネネティアにうなずいてみせた。

「――大丈夫だ。続けよう」

「エヴ様と異物の精神接続を確認。これより『精神同調』を開始します」

 ネネティアは淡々と言い放った。
 深く息を吸い込み、精神ダイブの準備に取り掛かる。彼女の全身が淡く光り、意識が徐々にエヴァンの内側へと向けられていく。

 見開かれたエヴァンの目が、ネネティアを映さなくなっている。
 彼はひたすらに移り変わってゆく記憶に、飲み込まれそうになっていた。

 その時だった。

「ぐっ……!はぁ、はぁ……っ!」

 エヴァンが急に苦しそうなうめき声を上げた。彼の周りにあのもやが薄くただよう。
 鈍く紫がかった気体が、エヴァンの胸の羅針盤から噴き上がった。

「瘴気……っ!?」

 驚くネネティアの視界の端で、床に描かれた術式の一部が、ひび割れ崩れていく。
 彼の身体が再び、うろこに覆われ始める。
 エヴァンの精神は急速に侵されていた。彼の意識が途切れてしまうかもしれない。

「……ティアっ!」

 エヴァンの叫びとほぼ同時に、紫のもやが渦を巻きながらあたりに広がり始めた。
 ネネティアは両手をかざした。

「結界、展開――!」

 薄い光の膜が、エヴァンの胸の羅針盤を瘴気ごと包み込むように広がる。だが噴き出す瘴気の圧は凄まじく、結界の表面が、まるで嵐にさらされた帆のように激しく波打った。

「くぅ……っ!」

 歯を食いしばりながら、ネネティアは全身の魔力を結界の維持に注ぎ込む。脳裏には、いつかエヴァンが教えてくれた言葉が、警鐘のように鳴り響いていた。

――結界は、一瞬だけ完全に防ぐためにある。維持しようとすればするほど、魔力は際限なく喰われていく。

 分かっている。分かっていて、それでも今、これしか手段がなかった。

「施術、続けます!瘴気を防いで、『摘出施術』を実施します」

 言葉の途中で、瘴気の一撃が結界の表面を大きく揺らした。ネネティアの体が、その衝撃で大きくよろめく。

「くっ……!大丈夫……、いける……!」

 ネネティアは奥歯を噛みしめ、崩れかけた結界を再び押し広げる。指先から流れ出る魔力が、ごっそりと目減りしていく感覚が、はっきりと分かった。視界の端がちらつき始める。それでも、彼女は止まらなかった。

 紫の靄が渦を巻きながら、確かな意志をもって結界の弱い箇所を探り当てようとする。瘴気の奥から、低い唸り声のようなものが響いた気がした。羅針盤自身が、抵抗している証拠だった。

「俺は……長くは保ちそうにない」

「分かっています!」

 一刻の猶予もない。
 暴走を始めた羅針盤からエヴァンを救うため、ネネティアは彼の手を強く握りしめた。

「精神同調、起動――っ!これより、エヴ様を介して、羅針盤の精神にダイブします」

 二人を包み込むように、まばゆい光がほとばしった。
 瘴気を防ぐ結界を維持したまま、ネネティアの意識はエヴァンの意識の深層へと飛び込んでいった。