竜の羅針盤 お硬い師匠の裏の顔は執着心で狂っていました

「ねえ」

 エヴァンの背後から、ネネティアが声をかけた。
 辺境の森のはずれ。小さな研究小屋の窓から、心地よい風がふきこむ。

「センセイ」

 無数の器具が棚に並んでいる。
 エヴァンは慣れた机に向かい、羽根ペンを走らせていた。その手は正確で迷いもない。査定報告書の文字は、彼の性格そのままに整然と並んでいく。

「……今日はまた、えらく昔の呼び方をするね」

 書類から目を離さないまま、エヴァンは返事をした。

「じゃあ、師匠」

 彼女は普段、彼を「エヴ様」と呼ぶ。甘えと師である彼への礼儀を持った呼び方だ。昔の呼び名を使うときは、彼女がいたずらをするときのいわば予告のようなものでもあった。

「なんの用かな。
 何かをたくらんでいる顔をしているね?」

 エヴァンが淡々と返すと、ネネティアは唇をとがらせる。

「エヴ様、書類しか見てないでしょ」

「見なくてもわかるさ」

 長年の付き合いで、彼女のこれがどういう前触れなのかエヴァンは嫌と言うほど知っていた。
 ネネティアは机にもたれかかり、彼の顔をのぞきこむとニコリと笑う。小悪魔めいた流し目。彼を求めていることをみじんも隠していなかった。

「毎日だってプロポーズしたいのを我慢してあげてるのに……」

 わざとらしく声を落とし、耳元に唇を寄せて彼女は甘くささやいた。

「していい時が来たら、覚悟してくださいね」

 部屋の空気がわずかに濃くなる。

 だが、エヴァンはといえば、眉一つ動かさず書類の続きを書いていた。何も起きていないかのように、羽根ペンをすべらせていくままだ。
 まったく効いていない。

「そこ、無反応なんですか!?もう。少しは動揺して」 

 ネネティアは子供のように大きく頬をふくらませた。

「はは。動揺する理由がないからね」

 エヴァンは顔もあげずに続けた。

「ティアの口説き文句は、毎回理屈が破綻しているよ」

「気持ちに理屈なんていりません」

 ネネティアは腕を組むと、すねたフリをしてそっぽを向いた。いつものじゃれ合いを楽しんでいる余裕がある。

「今度の依頼で成果を上げたら、私を助手にしてください」

 エヴァンは相変わらず顔を上げないまま、一瞬唇をかんだあとに言った。

「成果があろうがなかろうが、だめだ。ティアが近くにいると俺の調子が狂う」

「もうー!明日こそは認めさせてみせるんだからー!」

 ネネティアは紙を片手で持ち上げ、エヴァンに差し出した。

「これ、今日の分の収支報告書です」

 エヴァンははじめて顔を上げた。

「ああ、おつかれさま。おやすみ」

 エヴァンは手を伸ばし、ネネティアの差し出した書類を受け取った。紙の端に指が触れた、そのほんの一瞬だけ、彼の手がかすかに震えたことに、ネネティアは気づかなかった。
 紙を受け取る、という動作にしては少しばかり長過ぎる間があったことも。

 エヴァンは文章を読み進める。ネネティアらしい、とてもわ凝りやすい報告書だった。エヴァンはその手を、ふと止めた。まなざしにわずかなためらいが宿る。
 意識が、服の下に隠れた胸に向かう。布の上からその場所を押さえた。

 羅針盤が埋まり込んでいる場所だ。

 エヴァンの意識はゆっくりと、過去へ戻されていった。