「はい、どうぞ」
「あ……ありがとうございます、透明な騎士様」
穏やかなお城の朝。
落としたタオルをディレイさんに拾われた侍女の子が、ぺこりと頭を下げて彼の見えない手からぱっと出てきたタオルを受け取る。
そんな光景に、嬉しくなった僕は思わず顔がほころぶのを感じた。
あのダンスのレッスンから、半月が過ぎた。
しばらくはなにも感じなかったんだけど、最近はみんなからのディレイさんへの反応に、明らかな変化を感じるようになってきた。
「ハーレン卿は、エルルーナ姫に勝るとも劣らぬ剣の使い手と聞きました。お忙しいところ恐縮でございますが、息子に剣の手ほどきを施していただけないでしょうか」
こんな風に、全然知らない人がディレイさんに声をかけてくれることもあった。
もちろんみんなにディレイさんの姿は見えないんだけど、ディレイさんはいつだって僕のすぐ傍にいる。
だからみんなも、鈴なんかよりも『僕を目印』にすればディレイさんと話せるって覚えてくれたみたい。
「俺に? 構いませんが、本当に俺でいいんですか?」
「もちろんです。昨今、我が国では姫様とそれ以外の騎士との剣技の格差が開くばかり……しかし姫様に剣のご教示をお願いするわけにもいかず、困っていたところだったのです」
「なるほどー」
ディレイさんも、前よりもずっと積極的にみんなに声をかけるようになった。
鈴の音もただ鳴らすだけじゃなくて、みんなに聞こえるようにわざと遠くから鳴らしたり、一緒に足音も立ててみたり……とにかく周りのみんなのことを考えて、いろいろしてくれてるんだ。
「僕……とっても嬉しいです」
「んー?」
「ディレイさんがみんなと仲良くなって、受け入れられてるのが嬉しくて……だって僕にとっては、ディレイさんもお城のみんなも両方大切なんです。だから今みたいに、少しずつでも誤解や偏見がなくなればいいなって……ずっと思ってたんです」
「ぷははっ! 子供じゃあるまいし、そこまで心配する必要なんてないって」
部屋で不意に伝えた僕の気持ちを、ディレイさんは窓から吹き込む風みたいな軽さで笑い飛ばす。
「むぅ……僕は本当に心配したし、よかったって思ったんですからっ!」
「わかってるよ。だから俺もエルルにはずっと感謝してる。子供みたいにビビって、引きこもってたのは俺なんだからさ。ありがとね……エルル」
「あっ……」
まただ。
最近、僕はおかしい。
見えないはずのディレイさんから、まっすぐな眼差しを感じるたびに。
ディレイさんの、風みたいに透き通った言葉を聞くたびに。
僕の呼吸は止まったり速くなったりして、戦ってるときみたいに体中に血が巡る。
当たり前だけど体温も上がって汗もかくし、顔だって真っ赤になって恥ずかしい。
だから最初は思わず顔を背けてたんだけど、これだっていつもの僕らしくない。
「あの、ディレイさん……?」
「うん?」
肩をきゅってすくめて。
恥ずかしくて、赤くなった顔を逸らしたいのを必死に我慢して。
両手を膝の上に置く。
そのまま息を大きく吸ってから、掠れた声で聞いてみた。
「もしかして……今、僕の顔見てました?」
「え? いや、その……見てたけど……」
「それって、どんな風に見てたんですか……?」
「どんな風って……まあ、ガン見? ごめん、めっちゃ見てた……」
「っ……」
や、やっぱり……。
自分でも、どうしてわかるのか不思議だけど。
最近の僕はもう鈴も足音もいらないくらい、透明なディレイさんが今どこを見ていて、なにを考えているのかまでなんとなくわかるようになっていた。
「あの……どうして僕のこと……その、『ガン見』? してたんですか?」
「そこ聞くの!? なんか今日のエルルおかしくない!?」
「お、おかしくなんてないですっ!」
もちろん、本当はすごくおかしい。
自分でもおかしいのはわかってた。
こんな話を僕からディレイさんに振って、どこに向かって、どこに着地したいのか。
そんなことも、今の僕には考えられなかったんだから。
「あー、わかった。そりゃ嫌だよね……」
「はい?」
「今のは完全に俺の配慮が足りなかった。勝手にじろじろ見られるなんて、嫌に決まってる。マジでごめん、反省してる」
いやいやいやいや。
僕が聞きたいのはそういうのじゃなくてですね――
って、それなら……なにを聞きたかったの?
「ま、待ってくださいっ! 僕は別に、ディレイさんに見られるのは全然よくて……」
「……マジ?」
「あっ! ちがっ……! いや、違わないんですけど! その、むしろ嬉しいっていうか……! でも、どうしてそんなに見てくれるのかなって……少し気になったというか……」
そこで限界だった。
僕はもうそれ以上顔を上げていられなくて、膝の上に置いた手を握り締めて、思い切り目をつむって下を向いた。
どうして僕は、こんな変なこと言っちゃったんだろう……。
恥ずかしさと後悔が後から後から押し寄せてくる。
もう二度とこんな変なこと言わないって、心の中で何度も繰り返した。
「はぁー……やっぱ無理だ……」
下を向いて真っ赤になった僕の耳に、ディレイさんのため息交じりの声が届いた。
もしかして、嫌われちゃったのかな……?
そう思うくらい、意味のわからない話をしたと思った。
だけど――
「俺……エルルのことが好きだよ。大好きだから、見てたんだ」
「えっ……?」
今、なんて……?
「す、好き……? だ、誰が……誰を……?」
「俺が。エルルを」
飛び込んできたその言葉。
その言葉の意味を、僕はしばらく理解することができなくて。
「え、え……」
十秒か、一分か、それとも一時間か。
とにかくわけのわからないくらい、心も頭も止まってから。
「ええええええええええええええええええええ――っ!?!?」
びっくりするくらいの大声を上げて。
僕は目の前の景色がひっくり返るのを、どこか遠い世界の出来事みたいに感じていた――。
