王宮奇恋怪異譚

 ◆

 王妃教育の終わりを告げる鐘が天井の高い教室に柔らかく反響した。ジャニスは最後の一礼まで姿勢を崩さず、「本日はここまで」と言い置いて退室していった。七十を超えてなおあの背筋だ。鉄が仕込んであるのではないかとアレシアは半ば本気で思っている。

 教本を閉じ、椅子を引く。廊下に出ると、マルタが壁際に控えていた。手は前で組まれ、視線は真っ直ぐこちらを向いている。

「マルタ、ちょっと付き合ってほしい所があるの」

「はい、お嬢様。どちらへ」

「西翼よ」

 マルタの表情は変わらなかった。ただ、組んでいた手の指先がほんの僅か──爪の幅ほど──動いた。

「かしこまりました」

 それだけだった。問い返しもしなければ、理由も訊かない。父が選ぶ人間とはこういうものだ、とアレシアは思った。

 東翼から中央広間を横切り、西翼へ向かう回廊に入る。午後の陽が高窓から差し込んで、磨かれた石床に長い光の帯を落としていた。すれ違うメイドが二人、丁寧に頭を下げて通り過ぎる。──完璧な微笑みだった。完璧すぎる微笑みだった。

 足音が遠ざかるまでアレシアは黙っていた。

「ねえ、マルタ」

「はい」

「私がおかしくなったと思う?」

 マルタの歩調がほんの一瞬だけ乱れた。半歩にも満たない遅れ。すぐに元の間合いに戻ったが、アレシアはそれを聞き逃さなかった。靴底が石を擦る音は、回廊では思いのほかよく響く。

「……何をもって、と申しますか」

「お父様は私の言葉を信じてはいないわ」

 マルタが横目でこちらを見た。アレシアは前を向いたまま続けた。

「……」

「でもそれはそれとして、全力で動いてくださるのよ、あの人は。信じられない事を言い出した娘を見捨てないどころか、こうしてマルタまで寄越してくださって」

 アレシアはちょっとだけ笑った。笑ったというより、口の端がほころんだ程度のものだった。

「そういうところが大好きなのだけれど。少し親馬鹿なのかしら。……あ、いまのはただの冗談よ」

 マルタはしばらく何も言わなかった。五歩、六歩と無言の足音が続く。回廊の天井が高いぶん、二人分の靴音がやけに遠くから返ってくる。

「──差し出がましいことを申し上げてもよろしいでしょうか」

「どうぞ」

「旦那様は──信じていらっしゃらないのかもしれません。幽霊という()()は」

 妙な区切り方だった。アレシアは歩調を変えずにマルタのほうを見やった。

「ですが」とマルタは続けた。言葉を選んでいる。選んでいることが分かるくらいには、間を置いている。

「お嬢様のお話を伺った上で、旦那様が()()()()。──私はそのことの意味を考えます」

「意味?」

「旦那様はお嬢様のお言葉を鵜呑みにはなさらない。けれど、鵜呑みにならずとも何かがおかしいとはお感じになった──だからこそ、宰相閣下のお屋敷にまで足を運ばれたのではないかと」

 アレシアの足が一歩分だけ遅くなった。

「幽霊がいるかどうかは──私のような者には分かりません」

 マルタの声は平坦だった。いつもの事務的な声色とほぼ変わらないのだが、その中にある種の慎重さが透けていた。刃物の柄を布で包んでから差し出すような──そういう慎重さだ。

「ですが、旦那様は()()()()()とお感じになった。……お嬢様がおかしくなったのではなく、お嬢様の()()がおかしいのだと」

 アレシアは前を向いた。

 回廊の先が薄暗くなっている。高窓の光が途切れ、壁の燭台だけが頼りになる領域。西翼が近い。

「……マルタ」

「はい」

「ありがとう」

「いいえ」

 マルタの声音はいつも通りだった。いつも通りなのだが、ほんの少しだけ──本当に少しだけ、温度があった。

 ◆

 回廊を進むにつれ、空気が変わった。

 変わった、というのは比喩ではない。文字どおり変わったのだ。一週間ぶりのこの感覚──肌ではなく、骨が冷える。

「お嬢様」

 マルタの声が低くなった。

「ここは──やけに冷えますね」

 アレシアは足を止めた。振り返ってマルタを見る。マルタの顔色がわずかに変わっていた。唇の端が一瞬引き攣れて、すぐに戻る。

「感じる?」

「はい。──隙間風の類ではないかと思いますが」

「マルタ」

「はい」

「隙間風だと思う?」

 マルタは答えなかった。答えない、というよりも答えを持っていない顔をしていた。理性では隙間風だと言いたい。だが体が違うと言っている──そういう顔だった。

 アレシアにとってはそれで十分だった。

 自分だけが感じているのではない。ヨアヒムは匂いを感じた。マルタは冷気を感じた。一人ずつ、少しずつ──()()の存在を裏付ける者が増えていく。

「行きましょう」

 アレシアは踵を返した。今日はここまでで良い。マルタをこれ以上この冷気の中に留めておく理由はない。

 二人は足早に東翼へ向かった。角を曲がった瞬間、嘘のように空気が温んだ。まるで見えない境界線を越えたかのようだった。

 マルタが一度だけ振り返った。何が見えたのか、あるいは何も見えなかったのか──その横顔からは読み取れなかった。