最近、ずっと家にいる。
 会社を辞めた以上、決まった時間に外へ出る必要はない。
 食べ物も日用品もアキラが持って帰ってくる。必要なものがあれば通販で買えばいい。
 娯楽だって家の中にいくらでもある。
 退屈はしない。
 ただ、不健康だ。
 運動なら家でもできる。
 日光だって窓から入ってくる。
 外の空気だけは、外に出なければ吸えない。

「…………」

 そこまで考えて、馬鹿らしくなった。
 なんてことはない。
 ただ外出したいのだ。
 俺は適当な服に着替え、アキラの映像を確認した。
 今日のあいつは、朝から少し離れた場所にいる。
 今のところ目立った汚れもない。
 鏡を見る。
 問題ない。

「行くか」

 玄関を開けた。
 久しぶりの外は、妙に新鮮だった。
 久しぶりの空。
 久しぶりの風。
 久しぶりの猫。
 塀の上で寝ている猫を眺めながら歩く。
 別に珍しいものなんて何もない。
 以前なら毎日のように見ていた景色だ。
 それなのに、しばらく家に籠もっていただけで何もかもが新鮮に感じる。

「悪くないな」

 風が気持ちいい。
 たまには外に出るのもいいものだ。
 そんな久しぶりの快感を全身で味わっていると、

「あ、明人さん」

 声をかけられた。
 振り返る。
 老婆がこちらへ歩いてくる。
 見覚えがあった。
 俺自身は話したことがない。
 だが、アキラの映像では何度も見ている。

「ちょうどよかった。昨日の続き、手伝ってほしいんだけど……」

 思い出した。
 昨日、アキラがこの婆さんの家で部屋の模様替えを手伝っていた。
 家具を動かして、棚の位置を変えて。
 確か、まだ全部は終わっていなかったはずだ。
 うるさいな。
 俺は今、久しぶりの外を満喫しているところなんだ。

「今は忙しいんだ。また明日なら……」

「そうかい……悪かったねぇ……」

 老婆は少し残念そうな顔をして、とぼとぼと帰っていった。

「…………」

 まあ、いい。
 俺が約束したわけじゃない。
 また歩き出す。
 せっかく外へ出たのだ。
 今日は好きなように歩けばいい。
 しばらくして、公園の近くまで来た。

「あ! 明人兄ちゃん!」

 今度は少年だった。
 こいつも知っている。
 昨日、アキラが公園で一緒にカードゲームをしていた子供だ。

「今日もやろうぜ!」

「悪いな。今日は都合が悪いんだ」

「えー! 昨日また明日もやるって言ったじゃん!」

 確かに言っていた。
 アキラが。
 昨日は少年から礼にレアカードを1枚もらっていた。
 だが、子供の遊びに何時間も付き合ってカード1枚。
 どう考えても割に合わない。

「また今度な」

「なんだよ!」

 少年が頬を膨らませる。

「明人兄ちゃん、約束破んのかよ!」

「…………」

「昨日と違う人なんじゃねーの?」

「!」

 心臓が跳ねた。
 少年は俺を睨んでいる。
 もちろん、本気でそう思っているわけではないだろう。
 約束を破られた。
 腹が立った。
 だから口から出ただけの言葉だ。
 それでも。
 俺は何も言い返せなかった。

「……今日は本当に無理なんだよ。またな」

「絶対だからな!」

 少年と別れる。
 少し歩いてから、俺は立ち止まった。

「昨日と違う人、か……」

 当然だ。
 昨日ここにいたのは俺じゃない。
 アキラだ。
 さっきの婆さんだってそうだ。
 昨日初めて助けたわけではない。
 これまでにもアキラは何度もあの婆さんを手伝っている。
 町の人間から見れば、それは全部俺がやったことになっている。


 俺はアキラではない。
 だが。
 アキラは明人なんだ。


「…………」

 そういうことか。
 ペンキや泥だけ合わせればいいわけじゃない。
 外見だけ同じでも、行動が違えばいつか怪しまれる。
 アキラが明人として外を歩いている以上。
 俺が外へ出るときも、アキラでなければならない。
 再び歩き出す。
 さっきまで気持ちよかった風が、少しだけ鬱陶しく感じた。
 交差点まで来たところで、1人の老人が目に入った。
 横断歩道の前に立っている。
 車が途切れない。
 右を見て、左を見て。
 何度も渡ろうとしては諦めている。
 俺には関係ない。
 そう思って通り過ぎようとした。
 数歩進む。
 止まった。

「…………」

 アキラなら。

 俺は老人を見る。
 あいつなら、どうする。

「……手ぇ引いて渡るんだろうな」

 仕方なく引き返した。

「渡るんですか?」

「え? ああ……そうなんだけどねぇ」

「じゃあ、一緒に行きましょう」

 老人の手を取り、車が止まるのを確認して横断歩道を渡る。

「いやぁ、ありがとう。助かったよ」

「……どうも」

 礼を言われた。
 何ももらえなかった。
 まあ、いい。
 歩き続ける。
 今度は店の前に、両手いっぱいに荷物を抱えた男がいた。
 ドアを開けようとしているが、両手が塞がっていてうまくいかない。

「…………」

 アキラなら。

 俺は先にドアを開けた。

「あ、すみません! ありがとうございます!」

「どうぞ」

 また礼を言われた。
 次は道端で何かを探している女。

 アキラなら。

 声をかけた。
 落としたイヤリングを探しているらしい。
 一緒に探した。
 見つかった。

「本当にありがとうございます!」

 また。
 次はベビーカーを階段の前で持ち上げようとしている母親。

 アキラなら。

 手伝った。

「ありがとうございます!」

 また。
 それからも。
 困っている人間を見つけるたびに考えた。

 アキラならどうする。
 アキラなら。
 アキラなら。

 気がつけば、辺りは暗くなっていた。

「……疲れた」

 足が重い。
 腕も痛い。
 家から出たときは、ただ散歩をするだけのつもりだった。
 それが結局、1日中人のために動き回ってしまった。
 アキラにやらせればよかった。
 そう思う。
 俺はこんなことをするために、あいつを作ったはずなのだから。
 それでも。
 今日は何度も礼を言われた。
 ありがとう。
 助かった。
 本当にありがとう。
 いつもなら、アキラが外で集めてくる言葉だ。
 俺は後から物や金を受け取るだけだった。
 でも今日は違う。
 目の前の人間が俺を見て。
 俺に笑って。
 俺に言った。
 ありがとう、と。

「…………」

 体はへとへとだった。
 何も持って帰っていない。
 金にもなっていない。
 効率だけ考えれば、最悪の1日だ。
 だけど。

「……悪くはなかったな」

 俺は久しぶりの外の空気を吸い込んで、家へ帰った。