「上白木(かみしらき)さん、悪いんだけど今日の放課後、図書室のカウンター当番代わってくれない? 私、どうしても外せない用事があって……!」
「あ、は、はい……! 大丈夫、です……」
朝のHR前。
私は反射的に頷いてから、大きめの丸メガネのブリッジを人差し指で押し上げた。
断れなかった。
――というより、断るという選択肢を思いつくより先に、「はい」が口から出てしまった。
「ほんと!? サンキュー! 助かるー!」
ぱっと明るく笑った彼女は、それだけ言うと友達のところへ戻っていった。
「あ……」
今日、締め切りだった。
そこまで声にしたところで、もう遅い。
私は開きかけた口をそっと閉じた。
(……まあ、いいか)
いつものことだ。
私――上白木虹々(ここ)は、人に何かを頼まれると断れない。
嫌われたくない、とか。
いい子だと思われたい、とか。
たぶん、そういう立派な理由ですらない。
ただ、自分の意見を口にした瞬間に相手の表情が変わることが、怖いのだ。
「え、なんで?」
「普通こうじゃない?」
「上白木って、変わってるよね」
中学時代に何度も聞いた言葉が、今でも耳の奥にこびりついている。
だったら、何も言わなければいい。
誰かの意見に頷いて。
頼まれたら引き受けて。
目立たず、波風を立てず、教室の背景に溶け込んでいればいい。
黒髪のボブ。
大きな丸メガネ。
きっちり結んだ制服のリボン。
膝下まであるスカート。
鏡を見るたび思う。
我ながら、完璧だ。
誰の記憶にも残らない、地味な女子高生。
それが私の理想だった。
「キャーッ!」
突然、窓の外から甲高い歓声が上がった。
「如月くーん!」
「如月先輩、おはようございます!」
名前を聞いただけで、教室の女子たちが一斉に窓際へ集まっていく。
私は行かない。
行かなくても分かるから。
如月怜(きさらぎれい)。
同じ二年生。
そして――なぜか、私の隣の席の男子。
バスケットボール部のエース。
一年生からレギュラー。
成績は学年トップ。
百八十五センチの長身に、さらさらの茶髪。
少し鋭い三白眼と、その目元にある泣きぼくろ。
女子たちからつけられた呼び名は、『氷の王子』。
……すごい名前。
私だったら恥ずかしくて三日くらい学校を休むと思う。
「如月くん、これ……!」
窓の下から、女子の震える声が聞こえた。
どうやら告白らしい。
「ずっと好きでした! よかったら――」
「無理」
早い。
食い気味だった。
「え……?」
「興味ない。悪い」
悪いと言いながら、まったく悪いと思っていなさそうな声だった。
教室の女子たちが、
「きゃー!」
「今日も容赦ない!」
と、なぜか盛り上がっている。
(……怖い)
私はそっと教科書に視線を戻した。
あんな人とは一生関わらない。
というか、関われない。
太陽と日陰。
主役と背景。
住んでいる世界そのものが違う。
ガラッ。教室の扉が開いた。
一瞬、空気が変わった。
「如月くん、おはよ!」
「今日部活?」
「ねえ、昨日の試合の――」
「朝からうるさい」
如月くんは女子たちを一瞥すると、長い脚でまっすぐこちらへ歩いてきた。
正確には、私の隣の席へ。
椅子を引く音。
ふわりと、知らない香りがした。
清潔なシャツと、ほんの少しだけ爽やかな香水。
近い。
隣の席なのだから当たり前なのに、なぜか緊張する。
私は教科書に顔を埋めるようにして、身体を小さくした。
如月くんは私を見ない。
私も見ない。
それでいい。
同じクラスになって数か月。
席替えで隣になって二週間。
私たちは、一度もまともに話したことがなかった。
それが、私にとっては何よりありがたかった。
まさかこのとき。
この冷たい横顔の男が。
私の人生で一番知られてはいけない秘密に、誰より深く関わってくることになるなんて。
私は、知るはずもなかった。
