5月の空は、よく晴れていた。
校庭には白い雲がゆっくりと流れ、朝の風が校舎の窓を揺らしている。
今日は、三年生になって初めての体育祭。
教室では朝から、いつもより大きな声が飛び交っていた。
「ゼッケン持った?」
「水筒、忘れてない?」
「うちのクラス、絶対勝とうな!」
そんな声を聞きながら、和泉明凛は机の横に置いた荷物を確認した。
今日は審判係の仕事がある。
それに、美術部の代表として部活対抗リレーにも出ることになっていた。
少し緊張していた。
けれど、それ以上に気になっていることがあった。
隣の席に座る、神志那麗。
園芸部の彼は、いつもと変わらない様子で窓の外を眺めていた。
「神志那くん、今日、緊張してる?」
明凛が声をかけると、麗はゆっくりと振り向いた。
「少しだけ」
「少しだけ?」
「うん。でも、楽しみ」
「そっか」
明凛は笑った。
麗が楽しみにしているなら、自分も頑張れそうな気がした。
「明凛は?」
「私は……審判係もあるし、美術部のリレーもあるから、ちょっと緊張してる」
「そっか。頑張って」
「神志那くんもね」
そう言うと、麗は小さく笑った。
「うん」
その笑顔を見ただけで、明凛の胸が少しだけ温かくなった。
体育祭が始まる前、校庭には生徒たちが集まっていた。
美化係の生徒たちは、競技が始まる前の校庭をきれいにするため、ほうきやちりとりを手にしている。
麗もその中にいた。
園芸部の活動だけでなく、美化係としての仕事もあるのだ。
「神志那くん、おはよう」
明凛が声をかけると、麗は手を止めた。
「おはよう、明凛」
「朝から掃除、大変だね」
「うん。でも、みんなが使う場所だから」
麗はそう言って、校庭の端に落ちていた小さな紙くずを拾った。
この学校では、体育祭の前、昼、そして最後に、美化係が校庭を掃除する。
ほかの中学校にはない、この中学校だけの伝統らしい。
体育祭を気持ちよく始めて、途中もきれいに保ち、最後まで大切に使うための習慣なのだという。
「神志那くん、こういうの似合うね」
「掃除?」
「うん。なんか、植物のお世話をしてるときと似てる」
麗は少し考えてから、笑った。
「そうかもしれない」
「ふふっ」
明凛はその横顔を見ていた。
花に水をあげるときと同じように、麗は目の前のことを丁寧にしている。
そんなところが、明凛は好きだった。
開会式が始まると、校庭には全校生徒の声が響いた。
三年生になって初めての体育祭。
明凛は審判係として、担当する競技の確認をしていた。
少し離れたところでは、麗が美化係の仕事を終えて、園芸部の仲間たちと話している。
その姿を見つけると、明凛は思わず目で追ってしまった。
「和泉さん、そろそろ準備して」
係の先生に声をかけられ、明凛は慌てて返事をした。
「はい!」
今日は、ちゃんと頑張ろう。
そう心の中でつぶやいた。
午前中の競技が進んでいく。
明凛は審判係として、競技の進行を見守った。
走る生徒たち。
応援するクラスメイト。
ゴールした瞬間に上がる歓声。
校庭は、いつもよりずっとにぎやかだった。
競技の合間、明凛は麗の姿を探した。
麗は美化係の仕事をしながら、園芸部の仲間たちとも準備を進めているようだった。
やがて、学年対抗リレーの時間がやってきた。
「次は、学年対抗リレーです!」
放送が響く。
明凛は審判係の位置から、走者たちを見つめた。
その中に、麗がいた。
「神志那くん……」
小さく名前を呼ぶ。
麗は自分の順番を待ちながら、前を見ていた。
スタートの合図が鳴る。
走者たちが一斉に走り出した。
バトンが次々と渡されていく。
麗のチームも、懸命に走っていた。
そして、麗の番が来た。
バトンを受け取ると、麗は勢いよく走り出した。
いつも植物を見つめているときの、静かな表情とは違う。
真剣な目。
前だけを見つめる横顔。
明凛は思わず息をのんだ。
「神志那くん、頑張れ!」
声を出したつもりだったけれど、周囲の歓声にかき消されてしまった。
それでも、明凛は目を離せなかった。
麗は最後まで走り抜けた。
チームは二位。
ゴールした麗は、少し息を切らしながら仲間のところへ戻っていった。
明凛は、ほっと息をついた。
「すごかった……」
普段は穏やかな麗が、全力で走る姿。
知らなかった一面を見たようで、胸がどきどきしていた。
昼休み。
校庭のにぎやかさが少し落ち着き、生徒たちはそれぞれお弁当を広げ始めた。
明凛も家族と一緒に、お昼ご飯を食べることになっていた。
母が用意してくれたお弁当を広げる。
隣には、妹の葉月が座っていた。
葉月は家族から「はーちゃん」と呼ばれている。
「ねぇね、これ食べていい?」
「いいよ。はーちゃんの好きなやつ、入ってるよ」
「やった!」
はーちゃんは嬉しそうにお弁当を食べ始めた。
明凛も箸を持ち、家族と話しながらお昼を楽しんでいた。
そのときだった。
少し離れたところを、麗が通りかかった。
美化係の仕事の確認に向かうところらしい。
明凛はすぐに気づいた。
「あ、神志那くん」
思わず声をかける。
麗が振り向いた。
「明凛。お昼?」
「うん。家族と食べてるの」
「そっか」
麗は軽く会釈した。
その様子を、はーちゃんがじっと見ていた。
明凛の顔。
麗の顔。
そして、また明凛の顔。
小さな頭の中で、何かを考えているようだった。
そして、突然。
「ねぇねの彼氏?」
はーちゃんが、まっすぐ麗に向かって言った。
「えっ!?」
明凛は思わず声を上げた。
「は、はーちゃん!?」
麗も少し驚いたように、目を丸くした。
一瞬、三人の間に沈黙が流れる。
「ち、違うよ!」
明凛は慌てて首を振った。
「神志那くんは、同じクラスの友達!」
「ふーん?」
はーちゃんは、納得したような、していないような顔をした。
麗は少し困ったように笑った。
「こんにちは。神志那です」
「はーちゃんです!」
はーちゃんは元気よく答えた。
「神志那くん、ねぇねと仲いいの?」
「うん。同じクラスだから」
「ふーん」
はーちゃんは、じっと麗を見上げた。
「ねぇね、神志那くんのこと、よく話すよ」
「はーちゃん!」
明凛は顔が熱くなるのを感じた。
「そんなに話してないでしょ!」
「話してるよー」
はーちゃんは、いたずらっぽく笑った。
麗は明凛を見た。
「そうなんだ」
「ち、違うからね!」
明凛は慌てて言った。
麗は小さく笑った。
「うん」
その笑顔が、いつもより少しだけ優しく見えた。
明凛はお弁当のふたを見つめた。
顔が熱い。
はーちゃんのせいで、心臓が落ち着かない。
「神志那くん、お昼、ちゃんと食べてね」
ようやくそれだけ言うと、麗はうなずいた。
「うん。明凛もね」
「うん」
麗が歩いていく。
その背中を見送っていると、はーちゃんが小さな声で言った。
「ねぇね、顔赤いよ」
「もう、はーちゃん!」
家族の笑い声が広がった。
明凛は恥ずかしくて、しばらく顔を上げられなかった。
午後の競技が始まる前、美化係はもう一度校庭を掃除した。
麗も仲間たちと一緒に、落ちている紙くずや砂を片づけていた。
明凛はその姿を遠くから見つめた。
お昼のことを思い出す。
「ねぇねの彼氏?」
はーちゃんの声が、頭の中で何度も響く。
「……もう」
思い出すたびに、頬が熱くなった。
そのとき、麗がこちらを向いた。
目が合う。
明凛は慌てて視線をそらした。
けれど、少ししてから、もう一度だけ麗を見た。
麗はいつものように、穏やかに笑っていた。
午後の競技が進み、いよいよ部活対抗リレーの時間がやってきた。
美術部、園芸部、野球部、サッカー部、陸上部。
それぞれの部活が代表として参加し、部活同士で競争する競技だ。
明凛は美術部の代表として、走者の列に並んでいた。
「和泉さん、頑張って!」
美術部の仲間が声をかける。
「うん!」
明凛はうなずいた。
少し離れたところには、園芸部の麗がいた。
麗も代表として参加する。
「神志那くん!」
明凛が声をかけると、麗は振り向いた。
「明凛」
「お互い頑張ろうね」
「うん」
麗は小さく笑った。
「負けないよ」
「私だって!」
明凛は笑い返した。
スタートの合図が鳴った。
各部活の走者たちが、一斉に走り出す。
野球部、サッカー部、陸上部、そして美術部や園芸部。
校庭に大きな歓声が響いた。
明凛もバトンを受け取り、懸命に走った。
息が切れる。
足が重くなる。
それでも、前へ。
美術部の仲間たちの声が聞こえた。
「明凛、頑張れ!」
明凛は最後まで走り抜けた。
美術部は二位。
「やった……!」
仲間たちと喜び合いながら、明凛は息を整えた。
けれど、すぐに視線は園芸部の方へ向かった。
麗の走る番が近づいていた。
部活対抗リレーは、いよいよ終盤に入っていた。
先頭を走っていたのは、陸上部だった。
その後ろを、野球部やサッカー部の選手たちが続いている。
園芸部は、まだ少し後ろにいた。
「園芸部、頑張れー!」
応援の声が響く。
麗はバトンを受け取った。
その瞬間、明凛は目を見開いた。
麗が、走り出した。
速い。
いつもの穏やかな歩き方からは想像できないほど、力強い走りだった。
前を走る選手との距離が、少しずつ縮まっていく。
一人。
また一人。
麗は次々と追い抜いていった。
「えっ……!」
明凛は思わず声を漏らした。
野球部の選手を追い抜く。
サッカー部の選手にも追いつく。
そして、さらに前へ。
「神志那くん、速い……!」
明凛は夢中で麗を見つめた。
文化部の園芸部が、運動部を次々と追い抜いていく。
その姿に、校庭中がざわめいた。
「園芸部、すごい!」
「神志那、速っ!」
歓声が大きくなる。
麗は最後まで速度を落とさなかった。
そして、ついに目の前に見えてきたのは、先頭を走る陸上部。
陸上部の選手も、懸命に走っている。
それでも麗は、少しずつ距離を縮めていった。
あと少し。
あと少し。
麗が、陸上部の選手の横に並ぶ。
そして――
追い抜いた。
「うそ……!」
明凛は目を見開いた。
文化部の園芸部が、陸上部まで追い抜いた。
麗はそのまま先頭を走り続ける。
最後まで速度を落とさず、ゴールへ。
園芸部、優勝。
校庭中から大きな歓声が上がった。
「神志那くん、すごい……!」
明凛は、胸がどきどきするのを感じながら、麗の姿を見つめていた。
いつも花を大切に育てている、穏やかな神志那くん。
その彼が、陸上部まで追い抜いて一位になるなんて。
明凛は、今日またひとつ、知らなかった麗の姿を知った。
競技が終わり、少し落ち着いたころ。
麗が明凛のところへやってきた。
「明凛」
「神志那くん!」
明凛は思わず声を上げた。
「すごかった!」
「ありがとう」
麗は少し照れたように笑った。
「ほんとにすごかったよ。ごぼう抜きだったね!」
「たまたまだよ」
「たまたまじゃないよ!」
明凛は首を振った。
「だって、野球部もサッカー部も追い抜いてたもん。陸上部まで!」
「うん。走ってたら、前が見えてきて」
「前が見えてきてって……」
明凛は笑った。
「神志那くん、かっこよかった」
言ってから、はっとした。
麗が明凛を見つめる。
「……ありがとう」
いつもより少しだけ、声が小さかった。
明凛は急に恥ずかしくなって、視線をそらした。
「べ、別に、変な意味じゃなくて!」
「うん」
麗は笑った。
「分かってる」
本当に分かっているのかは、明凛には分からなかった。
けれど、その笑顔を見ていると、胸がまた温かくなった。
体育祭の最後の競技が終わると、校庭には疲れた声と、満足そうな笑顔が広がっていた。
美化係の生徒たちは、最後の掃除に取りかかった。
麗もほうきを手にして、校庭の端からごみを集めていた。
朝、昼、そして最後。
今日一日、何度も校庭をきれいにしてきた。
明凛は審判係の仕事を終え、片づけをしながら麗を見つけた。
「神志那くん」
「明凛。お疲れさま」
「お疲れさま。美化係、最後まで大変だね」
「うん。でも、もう少し」
麗はそう言って、ほうきを動かした。
明凛も近くに落ちていた紙くずを拾った。
「私も手伝う」
「ありがとう」
二人で校庭を片づける。
競技の歓声が遠くなり、夕方の風が吹き始めていた。
「今日、楽しかったね」
明凛が言った。
「うん」
麗はうなずいた。
「学年対抗リレーも、部活対抗リレーも」
「うん。神志那くん、学年対抗は二位で、部活対抗は一位だったもんね」
「明凛も、美術部で二位だった」
「えへへ。頑張ったよ」
「うん。見てた」
その言葉に、明凛は顔を上げた。
「見てたの?」
「うん」
麗は穏やかに笑った。
「頑張って走ってた」
明凛の胸が、またどきんと鳴った。
「……ありがとう」
小さく答える。
麗は最後の紙くずを拾い、ちりとりに入れた。
「これで終わりかな」
「うん。お疲れさま」
二人は顔を見合わせて笑った。
帰り支度を終えたころ、校庭には夕方の光が差し込んでいた。
明凛は荷物を持ち、麗の隣を歩いた。
「ねえ、神志那くん」
「ん?」
「今日のこと、絵に描いてもいい?」
麗は少し驚いたように明凛を見た。
「今日のこと?」
「うん。走ってるところとか、みんなで喜んでるところとか」
明凛は少し考えた。
「でも、一番描きたいのは……」
言いかけて、口を閉じる。
麗が首をかしげた。
「一番?」
「……神志那くんが、ごぼう抜きしてるところ」
麗は少し笑った。
「そこなんだ」
「だって、すごかったんだもん」
「そっか」
「うん」
明凛は笑った。
「忘れたくないから」
麗は、少しだけ目を細めた。
「明凛の絵なら、楽しみ」
その言葉に、明凛は胸がいっぱいになった。
「……ほんと?」
「うん」
「じゃあ、描くね」
「うん。見せて」
二人は並んで歩いた。
朝は少し緊張していた体育祭。
審判係の仕事も、美術部のリレーも、麗の走る姿も。
そして、お昼のはーちゃんの言葉。
思い出すだけで、明凛の胸は落ち着かなかった。
「ねぇねの彼氏?」
あの言葉が、また頭の中で響く。
明凛は隣を歩く麗をそっと見た。
麗はいつも通り、穏やかな顔をしていた。
けれど、今日の麗は、いつもより少しだけ違って見えた。
明凛の知らない一面を見せてくれたから。
そして、その姿を見て、もっと知りたいと思ってしまったから。
「神志那くん」
「なに?」
「今日は、ありがとう」
麗は明凛を見た。
「こちらこそ」
夕方の風が、二人の間を通り抜ける。
明凛は、今日の景色を心の中にしまった。
いつか絵に描くために。
忘れないように。
麗が走った姿も。
みんなの歓声も。
はーちゃんの、あの一言も。
全部、春の思い出にして。
春は、少しずつ夏へと向かっていた。
校庭には白い雲がゆっくりと流れ、朝の風が校舎の窓を揺らしている。
今日は、三年生になって初めての体育祭。
教室では朝から、いつもより大きな声が飛び交っていた。
「ゼッケン持った?」
「水筒、忘れてない?」
「うちのクラス、絶対勝とうな!」
そんな声を聞きながら、和泉明凛は机の横に置いた荷物を確認した。
今日は審判係の仕事がある。
それに、美術部の代表として部活対抗リレーにも出ることになっていた。
少し緊張していた。
けれど、それ以上に気になっていることがあった。
隣の席に座る、神志那麗。
園芸部の彼は、いつもと変わらない様子で窓の外を眺めていた。
「神志那くん、今日、緊張してる?」
明凛が声をかけると、麗はゆっくりと振り向いた。
「少しだけ」
「少しだけ?」
「うん。でも、楽しみ」
「そっか」
明凛は笑った。
麗が楽しみにしているなら、自分も頑張れそうな気がした。
「明凛は?」
「私は……審判係もあるし、美術部のリレーもあるから、ちょっと緊張してる」
「そっか。頑張って」
「神志那くんもね」
そう言うと、麗は小さく笑った。
「うん」
その笑顔を見ただけで、明凛の胸が少しだけ温かくなった。
体育祭が始まる前、校庭には生徒たちが集まっていた。
美化係の生徒たちは、競技が始まる前の校庭をきれいにするため、ほうきやちりとりを手にしている。
麗もその中にいた。
園芸部の活動だけでなく、美化係としての仕事もあるのだ。
「神志那くん、おはよう」
明凛が声をかけると、麗は手を止めた。
「おはよう、明凛」
「朝から掃除、大変だね」
「うん。でも、みんなが使う場所だから」
麗はそう言って、校庭の端に落ちていた小さな紙くずを拾った。
この学校では、体育祭の前、昼、そして最後に、美化係が校庭を掃除する。
ほかの中学校にはない、この中学校だけの伝統らしい。
体育祭を気持ちよく始めて、途中もきれいに保ち、最後まで大切に使うための習慣なのだという。
「神志那くん、こういうの似合うね」
「掃除?」
「うん。なんか、植物のお世話をしてるときと似てる」
麗は少し考えてから、笑った。
「そうかもしれない」
「ふふっ」
明凛はその横顔を見ていた。
花に水をあげるときと同じように、麗は目の前のことを丁寧にしている。
そんなところが、明凛は好きだった。
開会式が始まると、校庭には全校生徒の声が響いた。
三年生になって初めての体育祭。
明凛は審判係として、担当する競技の確認をしていた。
少し離れたところでは、麗が美化係の仕事を終えて、園芸部の仲間たちと話している。
その姿を見つけると、明凛は思わず目で追ってしまった。
「和泉さん、そろそろ準備して」
係の先生に声をかけられ、明凛は慌てて返事をした。
「はい!」
今日は、ちゃんと頑張ろう。
そう心の中でつぶやいた。
午前中の競技が進んでいく。
明凛は審判係として、競技の進行を見守った。
走る生徒たち。
応援するクラスメイト。
ゴールした瞬間に上がる歓声。
校庭は、いつもよりずっとにぎやかだった。
競技の合間、明凛は麗の姿を探した。
麗は美化係の仕事をしながら、園芸部の仲間たちとも準備を進めているようだった。
やがて、学年対抗リレーの時間がやってきた。
「次は、学年対抗リレーです!」
放送が響く。
明凛は審判係の位置から、走者たちを見つめた。
その中に、麗がいた。
「神志那くん……」
小さく名前を呼ぶ。
麗は自分の順番を待ちながら、前を見ていた。
スタートの合図が鳴る。
走者たちが一斉に走り出した。
バトンが次々と渡されていく。
麗のチームも、懸命に走っていた。
そして、麗の番が来た。
バトンを受け取ると、麗は勢いよく走り出した。
いつも植物を見つめているときの、静かな表情とは違う。
真剣な目。
前だけを見つめる横顔。
明凛は思わず息をのんだ。
「神志那くん、頑張れ!」
声を出したつもりだったけれど、周囲の歓声にかき消されてしまった。
それでも、明凛は目を離せなかった。
麗は最後まで走り抜けた。
チームは二位。
ゴールした麗は、少し息を切らしながら仲間のところへ戻っていった。
明凛は、ほっと息をついた。
「すごかった……」
普段は穏やかな麗が、全力で走る姿。
知らなかった一面を見たようで、胸がどきどきしていた。
昼休み。
校庭のにぎやかさが少し落ち着き、生徒たちはそれぞれお弁当を広げ始めた。
明凛も家族と一緒に、お昼ご飯を食べることになっていた。
母が用意してくれたお弁当を広げる。
隣には、妹の葉月が座っていた。
葉月は家族から「はーちゃん」と呼ばれている。
「ねぇね、これ食べていい?」
「いいよ。はーちゃんの好きなやつ、入ってるよ」
「やった!」
はーちゃんは嬉しそうにお弁当を食べ始めた。
明凛も箸を持ち、家族と話しながらお昼を楽しんでいた。
そのときだった。
少し離れたところを、麗が通りかかった。
美化係の仕事の確認に向かうところらしい。
明凛はすぐに気づいた。
「あ、神志那くん」
思わず声をかける。
麗が振り向いた。
「明凛。お昼?」
「うん。家族と食べてるの」
「そっか」
麗は軽く会釈した。
その様子を、はーちゃんがじっと見ていた。
明凛の顔。
麗の顔。
そして、また明凛の顔。
小さな頭の中で、何かを考えているようだった。
そして、突然。
「ねぇねの彼氏?」
はーちゃんが、まっすぐ麗に向かって言った。
「えっ!?」
明凛は思わず声を上げた。
「は、はーちゃん!?」
麗も少し驚いたように、目を丸くした。
一瞬、三人の間に沈黙が流れる。
「ち、違うよ!」
明凛は慌てて首を振った。
「神志那くんは、同じクラスの友達!」
「ふーん?」
はーちゃんは、納得したような、していないような顔をした。
麗は少し困ったように笑った。
「こんにちは。神志那です」
「はーちゃんです!」
はーちゃんは元気よく答えた。
「神志那くん、ねぇねと仲いいの?」
「うん。同じクラスだから」
「ふーん」
はーちゃんは、じっと麗を見上げた。
「ねぇね、神志那くんのこと、よく話すよ」
「はーちゃん!」
明凛は顔が熱くなるのを感じた。
「そんなに話してないでしょ!」
「話してるよー」
はーちゃんは、いたずらっぽく笑った。
麗は明凛を見た。
「そうなんだ」
「ち、違うからね!」
明凛は慌てて言った。
麗は小さく笑った。
「うん」
その笑顔が、いつもより少しだけ優しく見えた。
明凛はお弁当のふたを見つめた。
顔が熱い。
はーちゃんのせいで、心臓が落ち着かない。
「神志那くん、お昼、ちゃんと食べてね」
ようやくそれだけ言うと、麗はうなずいた。
「うん。明凛もね」
「うん」
麗が歩いていく。
その背中を見送っていると、はーちゃんが小さな声で言った。
「ねぇね、顔赤いよ」
「もう、はーちゃん!」
家族の笑い声が広がった。
明凛は恥ずかしくて、しばらく顔を上げられなかった。
午後の競技が始まる前、美化係はもう一度校庭を掃除した。
麗も仲間たちと一緒に、落ちている紙くずや砂を片づけていた。
明凛はその姿を遠くから見つめた。
お昼のことを思い出す。
「ねぇねの彼氏?」
はーちゃんの声が、頭の中で何度も響く。
「……もう」
思い出すたびに、頬が熱くなった。
そのとき、麗がこちらを向いた。
目が合う。
明凛は慌てて視線をそらした。
けれど、少ししてから、もう一度だけ麗を見た。
麗はいつものように、穏やかに笑っていた。
午後の競技が進み、いよいよ部活対抗リレーの時間がやってきた。
美術部、園芸部、野球部、サッカー部、陸上部。
それぞれの部活が代表として参加し、部活同士で競争する競技だ。
明凛は美術部の代表として、走者の列に並んでいた。
「和泉さん、頑張って!」
美術部の仲間が声をかける。
「うん!」
明凛はうなずいた。
少し離れたところには、園芸部の麗がいた。
麗も代表として参加する。
「神志那くん!」
明凛が声をかけると、麗は振り向いた。
「明凛」
「お互い頑張ろうね」
「うん」
麗は小さく笑った。
「負けないよ」
「私だって!」
明凛は笑い返した。
スタートの合図が鳴った。
各部活の走者たちが、一斉に走り出す。
野球部、サッカー部、陸上部、そして美術部や園芸部。
校庭に大きな歓声が響いた。
明凛もバトンを受け取り、懸命に走った。
息が切れる。
足が重くなる。
それでも、前へ。
美術部の仲間たちの声が聞こえた。
「明凛、頑張れ!」
明凛は最後まで走り抜けた。
美術部は二位。
「やった……!」
仲間たちと喜び合いながら、明凛は息を整えた。
けれど、すぐに視線は園芸部の方へ向かった。
麗の走る番が近づいていた。
部活対抗リレーは、いよいよ終盤に入っていた。
先頭を走っていたのは、陸上部だった。
その後ろを、野球部やサッカー部の選手たちが続いている。
園芸部は、まだ少し後ろにいた。
「園芸部、頑張れー!」
応援の声が響く。
麗はバトンを受け取った。
その瞬間、明凛は目を見開いた。
麗が、走り出した。
速い。
いつもの穏やかな歩き方からは想像できないほど、力強い走りだった。
前を走る選手との距離が、少しずつ縮まっていく。
一人。
また一人。
麗は次々と追い抜いていった。
「えっ……!」
明凛は思わず声を漏らした。
野球部の選手を追い抜く。
サッカー部の選手にも追いつく。
そして、さらに前へ。
「神志那くん、速い……!」
明凛は夢中で麗を見つめた。
文化部の園芸部が、運動部を次々と追い抜いていく。
その姿に、校庭中がざわめいた。
「園芸部、すごい!」
「神志那、速っ!」
歓声が大きくなる。
麗は最後まで速度を落とさなかった。
そして、ついに目の前に見えてきたのは、先頭を走る陸上部。
陸上部の選手も、懸命に走っている。
それでも麗は、少しずつ距離を縮めていった。
あと少し。
あと少し。
麗が、陸上部の選手の横に並ぶ。
そして――
追い抜いた。
「うそ……!」
明凛は目を見開いた。
文化部の園芸部が、陸上部まで追い抜いた。
麗はそのまま先頭を走り続ける。
最後まで速度を落とさず、ゴールへ。
園芸部、優勝。
校庭中から大きな歓声が上がった。
「神志那くん、すごい……!」
明凛は、胸がどきどきするのを感じながら、麗の姿を見つめていた。
いつも花を大切に育てている、穏やかな神志那くん。
その彼が、陸上部まで追い抜いて一位になるなんて。
明凛は、今日またひとつ、知らなかった麗の姿を知った。
競技が終わり、少し落ち着いたころ。
麗が明凛のところへやってきた。
「明凛」
「神志那くん!」
明凛は思わず声を上げた。
「すごかった!」
「ありがとう」
麗は少し照れたように笑った。
「ほんとにすごかったよ。ごぼう抜きだったね!」
「たまたまだよ」
「たまたまじゃないよ!」
明凛は首を振った。
「だって、野球部もサッカー部も追い抜いてたもん。陸上部まで!」
「うん。走ってたら、前が見えてきて」
「前が見えてきてって……」
明凛は笑った。
「神志那くん、かっこよかった」
言ってから、はっとした。
麗が明凛を見つめる。
「……ありがとう」
いつもより少しだけ、声が小さかった。
明凛は急に恥ずかしくなって、視線をそらした。
「べ、別に、変な意味じゃなくて!」
「うん」
麗は笑った。
「分かってる」
本当に分かっているのかは、明凛には分からなかった。
けれど、その笑顔を見ていると、胸がまた温かくなった。
体育祭の最後の競技が終わると、校庭には疲れた声と、満足そうな笑顔が広がっていた。
美化係の生徒たちは、最後の掃除に取りかかった。
麗もほうきを手にして、校庭の端からごみを集めていた。
朝、昼、そして最後。
今日一日、何度も校庭をきれいにしてきた。
明凛は審判係の仕事を終え、片づけをしながら麗を見つけた。
「神志那くん」
「明凛。お疲れさま」
「お疲れさま。美化係、最後まで大変だね」
「うん。でも、もう少し」
麗はそう言って、ほうきを動かした。
明凛も近くに落ちていた紙くずを拾った。
「私も手伝う」
「ありがとう」
二人で校庭を片づける。
競技の歓声が遠くなり、夕方の風が吹き始めていた。
「今日、楽しかったね」
明凛が言った。
「うん」
麗はうなずいた。
「学年対抗リレーも、部活対抗リレーも」
「うん。神志那くん、学年対抗は二位で、部活対抗は一位だったもんね」
「明凛も、美術部で二位だった」
「えへへ。頑張ったよ」
「うん。見てた」
その言葉に、明凛は顔を上げた。
「見てたの?」
「うん」
麗は穏やかに笑った。
「頑張って走ってた」
明凛の胸が、またどきんと鳴った。
「……ありがとう」
小さく答える。
麗は最後の紙くずを拾い、ちりとりに入れた。
「これで終わりかな」
「うん。お疲れさま」
二人は顔を見合わせて笑った。
帰り支度を終えたころ、校庭には夕方の光が差し込んでいた。
明凛は荷物を持ち、麗の隣を歩いた。
「ねえ、神志那くん」
「ん?」
「今日のこと、絵に描いてもいい?」
麗は少し驚いたように明凛を見た。
「今日のこと?」
「うん。走ってるところとか、みんなで喜んでるところとか」
明凛は少し考えた。
「でも、一番描きたいのは……」
言いかけて、口を閉じる。
麗が首をかしげた。
「一番?」
「……神志那くんが、ごぼう抜きしてるところ」
麗は少し笑った。
「そこなんだ」
「だって、すごかったんだもん」
「そっか」
「うん」
明凛は笑った。
「忘れたくないから」
麗は、少しだけ目を細めた。
「明凛の絵なら、楽しみ」
その言葉に、明凛は胸がいっぱいになった。
「……ほんと?」
「うん」
「じゃあ、描くね」
「うん。見せて」
二人は並んで歩いた。
朝は少し緊張していた体育祭。
審判係の仕事も、美術部のリレーも、麗の走る姿も。
そして、お昼のはーちゃんの言葉。
思い出すだけで、明凛の胸は落ち着かなかった。
「ねぇねの彼氏?」
あの言葉が、また頭の中で響く。
明凛は隣を歩く麗をそっと見た。
麗はいつも通り、穏やかな顔をしていた。
けれど、今日の麗は、いつもより少しだけ違って見えた。
明凛の知らない一面を見せてくれたから。
そして、その姿を見て、もっと知りたいと思ってしまったから。
「神志那くん」
「なに?」
「今日は、ありがとう」
麗は明凛を見た。
「こちらこそ」
夕方の風が、二人の間を通り抜ける。
明凛は、今日の景色を心の中にしまった。
いつか絵に描くために。
忘れないように。
麗が走った姿も。
みんなの歓声も。
はーちゃんの、あの一言も。
全部、春の思い出にして。
春は、少しずつ夏へと向かっていた。

