君のとなり〜拓実と〜

 夏休みが終わった。

 二学期の始業日。

 久しぶりの校舎には、夏休みの間に少しだけ変わった空気が流れていた。

 廊下には、久しぶりに会った友達の笑い声が響いている。

 私は友達と話しながら、教室へ向かっていた。

 そのとき。

 廊下の向こうに、見覚えのある姿が見えた。

 少しゆっくりとした歩き方。

 右足をかばうようにしている。

 胸が、大きく跳ねた。

「……翔くん」

 思わず足が止まる。

 翔が顔を上げた。

 目が合う。

 その瞬間、翔の顔に驚きが浮かんだ。

 そして――。

 ふっと、嬉しそうに笑った。

「瑠夏!」

 その声を聞いた瞬間。

 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。

 会いたかった。

 本当は、ずっと心配していた。

 手術は大丈夫だったのかな。

 リハビリは辛くないのかな。

 ちゃんと歩けるようになったのかな。

 聞きたいことは、いっぱいあった。

「今日から学校?」

「うん。今日から」

 翔が笑う。

「やっと戻ってこられた」

「……そっか」

 私は翔の足を見る。

 まだ装具をつけている。

「足……大丈夫?」

「学校に来るくらいなら大丈夫」

「リハビリは?」

「まだ続いてる」

「そっか……」

 そこまで言って、私は口を閉じた。

 本当なら、もっと聞きたい。

 もっと話したい。

 久しぶりなんだから。

 でも――。

 あの日から、私は決めた。

 翔への気持ちを終わらせる。

 高跳びをやめたのも、そのためだった。

 翔を好きなままではいけない。

 だから、少しずつ。

 翔のことを考えないように。

 翔を目で追わないように。

 翔に近づかないように。

 そうやって、私の中にある恋を消していこうと決めた。

 なのに。

 こうして目の前に翔がいるだけで。

 その決意が、簡単に揺らいでしまう。

「瑠夏?」

「……え?」

「なんか、ぼーっとしてない?」

「ううん。なんでもない」

 私は笑った。

 ちゃんと笑わなきゃ。

「学校、久しぶりだね」

「うん」

「無理しちゃダメだよ」

「分かってるって」

 翔が笑う。

「相変わらず心配性だな」

「だって……」

 言いかけて、私は止まった。

 だって、好きだから。

 そんな言葉が、喉まで出かかった。

「……なんでもない」

「?」

 翔が不思議そうな顔をする。

 その顔を見るのも、苦しかった。

「じゃあ、私、教室行くね」

「え?」

「またね、翔くん」

「……うん」

 私は翔の返事を聞いて、すぐに歩き出した。

 振り返らない。

 絶対に。

 そう思っていたのに。

 教室へ向かう途中、どうしても気になってしまった。

 ほんの少しだけ振り返る。

 翔は、まだそこにいた。

 私の背中を見ている。

 目が合った。

 翔が少しだけ笑った。

 私は小さく頭を下げて、今度こそ前を向いた。

 そのまま教室へ戻る。

 胸の奥が痛かった。

 やっと会えたのに。

 本当は、もっと話したかった。

 なのに。

 自分から離れてしまった。

 これでいい。

 これでいいんだ。

 そう言い聞かせる。

 翔への気持ちを消すためには。

 これくらいしなきゃ。

     *

 廊下に一人残された翔は、しばらく瑠夏が去っていった方向を見ていた。

 やっと学校に戻れた。

 入院している間、何度も思い浮かべた。

 学校に戻ったら、瑠夏に会いたい。

 ちゃんと話したい。

 笑ってる顔が見たい。

 それなのに。

 久しぶりに会った瑠夏は、どこかよそよそしかった。

 以前なら、もっと話してくれた。

 もっと笑ってくれた。

 なのに今日は、自分から離れていった。

「……なんで?」

 答えは出ない。

 自分には、思い当たることがなかった。

 翔は小さく息を吐いて、歩き出した。

     *

 二学期が始まって数日。

 放課後のホームルームで、担任の先生が黒板の前に立った。

「来月は体育祭。そして、その後には文化祭があります」

 教室がざわつく。

「文化祭は十一月。準備期間もあるので、そろそろ実行委員を決めます」

 私は友達と顔を見合わせた。

「実行委員、誰かやる?」

「どうしよう」

 先生が教室を見回す。

「やりたい人、いるか?」

 しばらく沈黙が続いた。

「誰もいないか?」

 そのとき、隣の友達が私の肩をつついた。

「瑠夏、やれば?」

「私?」

「うん。こういうの好きじゃん」

「……そうかな」

「絶対向いてるって」

 私は少し考えた。

 文化祭。

 十一月。

 まだ少し先のことだけど。

 新しいことを始めるのも悪くない。

「じゃあ……やります」

 私は手を挙げた。

「お、瑠夏。ありがとう」

 先生が黒板に私の名前を書く。

 そのあと何人かの生徒も決まり、実行委員が決まっていった。

「次の実行委員会は、放課後に会議室で行うからな」

「はい」

 先生が教室を出ていく。

 私は黒板に書かれた自分の名前を見つめた。

 文化祭。

 ここから、また新しい毎日が始まる。

 そう思った。

 まだ知らなかった。

 この文化祭が。

 私の恋を、大きく動かすことになるなんて。