君のとなり〜拓実と〜

 六月の終わり。

 梅雨の合間に覗く青空は、もう夏の色をしていた。

 放課後の体育館は、窓を開けても少し蒸し暑い。

 床に落ちた汗が、小さな水滴になって光っている。

 新体操部の練習も、夏休みを前に少しずつ熱を帯びていた。

「今日はここまでにしようか」

 先輩の声がして、私はリボンを片づけた。

 汗で少し重くなった髪を、後ろでまとめ直す。

「瑠夏ちゃん、最近すごく動き戻ってきたね」

「本当ですか?」

「うん。三年ブランクあるって言われなかったら、分からないくらい」

「ありがとうございます」

 嬉しくて笑う。

 小学生の頃にやっていた新体操。

 中学では離れていたけれど、高校に入ってまた始めてから、少しずつ身体が昔の感覚を取り戻していた。

 リボンを持つ指。

 ターンするときの軸。

 音楽を身体で感じる感覚。

 忘れていたと思っていたものが、ひとつずつ戻ってくる。

 それが嬉しかった。

「ちょっと休憩してから片づけよう」

「はい」

 私はタオルを肩にかけ、体育館の端にある扉へ向かった。

 重たい扉を開けると、熱を含んだ風が頬を撫でた。

「……暑い」

 思わず笑ってしまう。

 手すりに両手を置く。

 見下ろした校庭では、いくつもの部活動が練習を続けていた。

 サッカー部の掛け声。

 野球部の金属バットがボールを捉える音。

 遠くから聞こえる吹奏楽部の音。

 夏が近づいている。

 そんな空気だった。

 私はぼんやりと校庭を眺めた。

 その先に、陸上部がいる。

 そして。

 高跳びのマット。

 胸が、ほんの少しだけざわついた。

 もう見ない。

 そう思ったのに。

 目は自然と、その場所を探していた。

 いた。

 翔。

 今日も高跳びの練習をしている。

 私は小さく息を吐いた。

 高校に入ってから、何度この場所から翔を見ただろう。

 高跳びをやめた私。

 それでも翔が跳んでいる姿を見ると、どうしても足を止めてしまう。

 翔は助走位置に立っていた。

 少しだけ身体を揺らしながら、バーを見ている。

 私は手すりに置いた指先に、少し力を込めた。

 走る。

 踏み切る。

 跳ぶ。

 いつもの動き。

 そう思った。

 その瞬間だった。

 翔の身体が、突然崩れた。

「……え?」

 高く跳んだわけじゃない。

 踏み切った直後。

 翔が、その場で足を押さえた。

 そして、そのまま地面に座り込んだ。

 私は息を呑んだ。

「翔くん……?」

 声が出た。

 もちろん、ここからでは届かない。

 陸上部の仲間が一人、二人と翔のところへ駆け寄っていく。

 翔は動かない。

 右足を伸ばしたまま、じっとしている。

 誰かが先生を呼びに走っていく。

 私は手すりを強く握った。

 何が起きたの。

 さっきまで、普通に跳んでいたのに。

 翔が顔をしかめている。

 その表情を見るだけで、胸が苦しくなった。

 私はバルコニーから動けなかった。

 助けに行くこともできない。

 ただ、遠くから見ていることしかできない。

 やがて先生が駆けつけ、翔のそばにしゃがみ込んだ。

 何かを話している。

 翔が小さく頷く。

 それから、周りの人に支えられるようにして立ち上がろうとした。

 でも。

 すぐに顔を歪めた。

 私は唇を噛んだ。

「……大丈夫なの?」

 誰に聞くでもなく呟く。

 夏の風が吹いた。

 汗ばんだ頬を撫でていく。

 さっきまで明るかった校庭が、急に遠く感じた。

     *

 翌朝。

 教室に入ると、何人かの女子が話をしていた。

「昨日、陸上部で怪我した人いたんだって」

「C組の翔くんでしょ?」

 その名前を聞いた瞬間、私は足を止めた。

「……翔くん?」

「あ、瑠夏も知ってる?」

「うん……」

 私は鞄を机に置きながら、何気ないふりをした。

「昨日、練習中に怪我したらしいよ」

「病院行ったんだって」

「アキレス腱を断裂したらしい」

 その言葉を聞いた瞬間。

 胸の奥が、冷たくなった。

「……アキレス腱?」

「うん。結構大きな怪我みたい」

 私は何も言えなかった。

 昨日。

 バルコニーから見た翔。

 突然、動けなくなった姿。

 あのときの表情。

 全部が頭の中に蘇ってくる。

 アキレス腱を断裂。

 それが、どれほどの怪我なのか。

 私は詳しく知らなかった。

 でも。

 少なくとも、すぐにまた走れるような怪我ではないことくらい分かった。

 私はそっと手を握った。

 高跳び。

 翔がずっと続けてきたもの。

 何度失敗しても、また助走位置へ戻っていた。

 その翔から。

 高跳びが奪われるかもしれない。

 そう思っただけで、胸が苦しくなった。

     *

 それから数日。

 翔は学校に来なかった。

 教室が違うから、普段なら顔を合わせないこともある。

 それでも。

 廊下を歩いているとき。

 昇降口を通るとき。

 体育館へ向かうとき。

 私は無意識に翔の姿を探していた。

 でも、いない。

 校庭を見ても、高跳びのマットの周りに翔はいなかった。

 バーだけが、静かに立っている。

 あの日まで、当たり前にそこにあった景色。

 それが、こんなにも寂しく見えるなんて思わなかった。

     *

 夏休みが始まる頃。

 翔が手術を受けることになったと聞いた。

 アキレス腱をつなぐ手術。

 その後は、しばらく入院してリハビリをするらしい。

 私は、その話を聞きながら黙っていた。

「結構長く入院するんだって」

「そうなんだ……」

 それ以上は、何も言えなかった。

 夏休み。

 みんなが海へ行ったり、花火大会を楽しんだりする季節。

 その間も、翔は病院にいる。

 ベッドの上で。

 自分の足と向き合って。

 もう一度、走れるようになるために。

 私は空を見上げた。

 真っ青な空。

 雲ひとつない、夏の空。

 高跳びのバーを越える翔の姿が、頭に浮かんだ。

 私は高跳びをやめた。

 自分から離れた。

 なのに。

 翔が跳べなくなったと知った今。

 あの場所に戻ってほしいと思ってしまう。

 また、走ってほしい。

 また、跳んでほしい。

 いつか。

 もう一度。

 あのマットの上に立ってほしい。

 私は胸の前で、そっと手を握った。

 翔には、言えないけれど。

 心の中でだけ。

 私は願った。

 ――早く、元気になりますように。

 そして。

 また、翔が跳べますように。