君のとなり〜拓実と〜

 高校生活が始まって、半月ほどが過ぎた。

 少しずつ新しい制服にも慣れてきて、朝の校門をくぐる足取りも、入学したばかりの頃より軽くなっていた。

 放課後になると、私は体育館へ向かう。

 新体操部に入部したからだ。

 小学生の頃、私は新体操を習っていた。

 音楽に合わせて身体を動かすことが好きだった。

 リボンが空中に描く曲線。

 ボールを投げ上げた一瞬の静けさ。

 身体を大きく伸ばしたときの解放感。

 全部が好きだった。

 けれど、中学生になってからは続けなかった。

 三年間のブランク。

 だから、高校でまた始めることには少しだけ不安もあった。

 昔みたいに身体が動くかな。

 忘れていることも多いだろうな。

 そう思っていた。

 ところが。

「瑠夏ちゃんって、経験者?」

 入部して二日目。

 先輩にそう聞かれた。

「はい……小学生の頃に少しだけ」

「少しだけっていう動きじゃないよ」

「え?」

「身体の使い方が綺麗。三年もやってなかったとは思えない」

 別の先輩まで、感心したように私を見る。

「本当に中学ではやってなかったの?」

「はい」

「もったいないなあ」

 私は少し照れながら笑った。

「でも、三年ぶりなので……ターンとか、全然安定しなくて」

「それでも十分上手いよ」

 そう言ってもらえるのは、素直に嬉しかった。

 久しぶりに触れたリボンは、最初こそ少し重く感じた。

 思ったところに飛ばない。

 指先から離れるタイミングがずれる。

 ターンの軸も、昔ほど綺麗には決まらない。

 それでも、身体を動かしているうちに、少しずつ感覚が戻ってきた。

 音楽が流れる。

 私はリボンを持った右手を大きく回した。

 白いリボンが空中に弧を描く。

 一歩。

 二歩。

 身体をひねる。

 足を伸ばす。

 最後に、つま先で床を捉える。

 ぴたり。

 止まった。

「今の綺麗!」

 先輩の声が飛んできた。

 私は振り返って笑った。

 久しぶりだった。

 こんなふうに、夢中になって身体を動かすのは。

 高跳びとは違う。

 でも。

 空中に身体を預ける瞬間があるところは、少しだけ似ていた。

 私は、ここでいい。

 そう思った。

 高跳びをやめたことを、後悔しないためにも。

 私は新体操に夢中になろうと思った。

     *

 その日の練習の途中。

「少し休憩しようか」

 先輩の声がして、私はタオルを手に取った。

 体育館の端にある扉へ向かう。

 その扉の向こうには、外のバルコニーがある。

 重たい扉を開けると、春の風が一気に身体を包んだ。

「……気持ちいい」

 体育館の中とは違う、少し冷たい空気。

 私はバルコニーへ出て、手すりに軽く手を置いた。

 見下ろせば、校庭が広がっている。

 運動部の声。

 ボールを蹴る音。

 グラウンドを走る足音。

 春の陽射しを受けた土が、少しだけ白く霞んで見えた。

 その先には、陸上部の練習場所がある。

 短距離の選手が何人も走っていた。

 その中に、高跳びのマットが見えた。

 ――高跳び。

 胸の奥が、きゅっと縮まる。

 私は目を逸らそうとした。

 もう、やらない。

 そう決めたはずだった。

 なのに。

 視線は、マットの近くから離れなかった。

 一人の男子が、助走位置へ歩いていく。

 少し俯いて、バーの高さを確認している。

 その歩き方を見た瞬間。

 胸が、大きく鳴った。

 ――翔。

 翔だった。

 陸上部の練習着を着て、バーの前に立っている。

 中学の頃より、少しだけ身体が大きくなったように見えた。

 私は知らないうちに、手すりを握っていた。

 翔が一度だけ深く息を吐く。

 助走位置へ戻る。

 そして――走り出した。

 タン、タン、タン。

 乾いた靴音が、校庭から聞こえてくる。

 踏み切る。

 身体が浮く。

 背中を反らせる。

 バーを越える。

 マットへ落ちる。

 成功。

 私は、息を止めていたことに気づいた。

 ゆっくり息を吐く。

 翔はマットから起き上がると、バーを見た。

 そして、また助走位置へ向かう。

 私は、その姿を見つめていた。

 見ないつもりだった。

 高跳びから離れたのだから。

 翔からも、少しずつ離れようと思っていたのだから。

 なのに。

 翔が跳ぶたびに、目が追ってしまう。

 助走。

 踏み切り。

 空中で身体を反らせる瞬間。

 着地。

 その一つ一つを、私は知っている。

 中学の頃から、ずっと見てきた。

 バーを越えたとき。

 私は胸に拳を当てた。

 トントン。

 そして、グッ。

 翔も同じように返してくれた。

 あのサイン。

 誰にも分からない、二人だけのサイン。

 思い出しただけで、胸が苦しくなった。

 翔がまた助走を始める。

 今度は――。

 カンッ。

 バーが落ちた。

 翔はマットから起き上がる。

 何も言わない。

 落ちたバーを拾って、元の位置へ戻す。

 そして、また助走位置へ向かった。

 悔しい。

 そう口にすることはない。

 でも。

 その横顔を見れば分かる。

 もう一度跳びたいんだ。

 次は越えたいんだ。

 私は、その姿を見ながら思った。

 翔は、まだ高跳びを続けている。

 私は、もうやめた。

 同じ高校にいるのに。

 同じ空の下にいるのに。

 私たちは、もう別々の場所に立っている。

 そう思ったら、胸の奥が少しだけ痛んだ。

「瑠夏ちゃん?」

 後ろから先輩の声がした。

 私は慌てて振り返る。

「はい?」

「休憩、もうすぐ終わるよ」

「あ……はい」

 私はバルコニーから離れた。

 でも、体育館へ戻る前に、もう一度だけ校庭を見た。

 翔が、また跳ぼうとしている。

 助走位置に立っている。

 春の陽射しの中で、翔の姿だけが妙に鮮明に見えた。

 私は唇を噛んだ。

 もう、好きじゃなくなる。

 そう決めたはずなのに。

 高跳びをやめれば、きっとこの気持ちも消えていくと思っていたのに。

 翔が跳んでいる。

 ただ、それだけなのに。

 胸の奥にしまったはずの気持ちが、簡単に顔を出してしまう。

 私は静かに扉を閉めた。

 体育館の中へ戻る。

 リボンを手に取る。

 音楽が流れ始めた。

 私は身体を動かした。

 リボンが空中に大きな円を描く。

 ステップを踏む。

 身体を伸ばす。

 ターンする。

 跳ぶ。

 着地する。

 今、私がいるのはここ。

 新体操のマットの上。

 私が選んだ場所。

 それなのに。

 さっき見た翔の姿が、頭から離れなかった。

 高跳びをやめた私。

 高跳びを続ける翔。

 同じ高校にいるのに。

 少しずつ、違う道を歩き始めている。

 そう思っていた。

 このときは、まだ。