君のとなり〜拓実と〜

 4月。

 桜の花びらが、校門へ続く坂道を薄桃色に染めていた。

 中学校の制服とは違う、新しい制服。

 少しだけ硬い襟元。

 まだ身体に馴染んでいない革靴。

 肩にかけた鞄も、鏡の前で何度も確認した髪型も。

 全部が新しかった。

 今日から、高校生。

 私は校門の前で一度だけ立ち止まり、ゆっくり息を吐いた。

 春の風が吹く。

 桜の花びらが一枚、目の前を横切った。

 その向こうに、大きな校舎が見える。

 ここで三年間を過ごす。

 そう思うと、少しだけ胸が高鳴った。

 でも。

 同時に、ひとつだけ気になっていることがあった。

 翔も、この高校にいる。

 卒業式の日。

 校門へ向かう道で、翔が言った。

『高校、同じだな』

 その言葉を思い出す。

 同じ高校。

 それだけなのに。

 私は昨日から、何度もその言葉を思い返していた。

 会えば、きっと普通に話せる。

 そう思っていた。

 中学の頃と同じように。

 でも。

 高校生になった今日。

 同じ制服を着て、この校門をくぐると、なんだか少しだけ違って見えた。

 私は小さく息を吐いて、校舎へ向かった。

     *

 入学式が終わり、教室へ戻る。

 窓の外では、新しい制服を着た生徒たちが行き交っていた。

 教室には、知らない顔がたくさんある。

 中学から一緒の子もいるけれど、ほとんどは初めて会う人たちだった。

 私は自分の席に座り、机の上に手を置いた。

 これから始まるんだ。

 新しい生活。

 新しい友達。

 新しい毎日。

 私は窓の外へ視線を向けた。

 高跳びのことは、考えない。

 そう決めていた。

 もう、跳ばない。

 高校では別のことをする。

 それでいい。

 そう思っていた。

     *

 放課後。

 部活動紹介が行われる体育館には、たくさんの新入生が集まっていた。

 ステージの上では、各部が新入生に向けて声を上げている。

 バスケットボール部。

 吹奏楽部。

 サッカー部。

 そして――陸上部。

 短距離の選手が走り、高跳びの選手がバーを越える。

 会場から歓声が上がった。

 私は、思わずそちらを見た。

 身体が宙に浮く。

 バーを越える。

 マットに着地する。

 胸の奥が、ほんの少しだけざわついた。

 懐かしい。

 助走の感覚。

 踏み切る瞬間。

 身体が宙に浮く感覚。

 全部、まだ覚えている。

 でも。

 私は目を逸らした。

 もう、私は跳ばない。

 そう決めたんだから。

 そのとき。

「瑠夏?」

 後ろから声がした。

 振り返る。

 翔だった。

 中学の頃とは違う制服姿。

 少しだけ大人っぽく見える。

 でも、顔を見ればすぐに分かる。

「……翔くん」

 思わず名前を呼ぶ。

 翔が少し笑った。

「瑠夏、陸上部入るだろ?」

 心臓が、一瞬だけ止まったような気がした。

「……え?」

「だって、高跳び」

 翔は当たり前のように言った。

「続けるんだろ?」

 私は答えられなかった。

 翔は、私が高校でも高跳びをすると思っている。

 当然みたいに。

 私は少しだけ笑った。

「……入らないよ」

「え?」

「陸上部」

 翔の表情が止まった。

「なんで?」

「なんとなく」

「なんとなくって……」

 翔が私を見る。

 私は視線を逸らした。

「もう、高跳びはいいかなって」

 翔は何も言わなかった。

 体育館では、次の部活紹介が始まっている。

 大きな拍手が起こる。

 でも、私たちの周りだけ、音が遠くなったような気がした。

「……なんで高跳びやんねぇんだよ!」

 翔の声が、少しだけ大きくなった。

 私は驚いて顔を上げた。

 翔は、怒っているようにも見えた。

 でも。

 その目には、怒りだけじゃないものがあった。

 戸惑い。

 寂しさ。

 理解できない、という顔。

 私は胸の奥が痛くなった。

「……もう、決めたから」

「でも……」

「翔くん」

 私は笑った。

「高校では、別のことしたいの」

 翔はしばらく黙っていた。

 何か言いたそうにしていたけれど、結局、何も言わなかった。

「……そっか」

 それだけ。

 私は小さく頷いた。

「うん」

 本当のことなんて、言えない。

 高跳びを辞めた理由も。

 あの日、翔と彩花を見てしまったことも。

 あのとき、自分の初恋を終わらせようと思ったことも。

 全部、胸の中にしまっておく。

 翔には、知られなくていい。

 私はそう思った。

 でも。

 翔は、まだ私を見ていた。

 まるで、何かを探すように。

 私はその視線から逃げるように、ステージへ顔を向けた。

 体育館の高い天井。

 大きな窓から差し込む春の光。

 新しい制服。

 新しい学校。

 新しい生活。

 ここから、全部が変わっていく。

 そう思った。

 それなのに。

 隣にいる翔だけは、変わらなかった。

 中学の頃と同じように。

 私の知らないところで、私の心を揺らしていた。