君のとなり〜拓実と〜

 その噂を聞いたのは、六月の終わりだった。

 朝から空は薄暗く、教室の窓には細かな水滴が残っていた。

 梅雨らしい湿った空気が教室に入り込み、机の上に置いたノートの端が少しだけ柔らかくなっている。

 一時間目が始まるまでの教室は、いつもより騒がしかった。

「ねえ、知ってる?」

 前の席から聞こえてきた声に、私は教科書を開く手を止めた。

「何?」

「彩花のこと」

 その名前が耳に入った瞬間、胸の奥が小さく反応した。

「昨日、翔に告白したんだって」

 息が止まりそうになった。

 私は顔を上げなかった。

 聞き間違いかもしれない。

 そう思ったのに、次の言葉がはっきり聞こえてきた。

「放課後、二人で話してたって」

「え、本当に?」

「うん。見た人がいるらしいよ」

「で、翔は何て言ったの?」

「そこまでは知らないって」

 その言葉に、少しだけ胸が詰まった。

 翔が何て答えたのか。

 それは誰にも分からないらしい。

 付き合ったのか。

 断ったのか。

 まだ返事をしていないのか。

 何も分からない。

 ただ、彩花が翔に告白した。

 その事実だけが、頭の中に残った。

「でも、彩花って前から翔のこと好きだったよね」

「そうなの?」

「見てたら分かるじゃん」

 その言葉に、私はゆっくり顔を上げた。

 彩花。

 昨日、練習中に翔に声をかけていた。

 次の記録会の話をしていた。

 笑っていた。

 私は、そのときの二人を思い出した。

 あれは――。

 そういうことだったんだ。

 胸の奥が、ずきっと痛んだ。

「瑠夏?」

 隣の席の子に呼ばれて、私は慌てて笑った。

「……なに?」

「どうしたの? ぼーっとしてる」

「ううん。何でもない」

 何でもない。

 そう言ったのに。

 胸の中は、全然何でもなくなかった。

 その日の昼休みも、私は何度も窓の外を見た。

 校庭では男子たちが話をしている。

 その中に翔の姿があった。

 少し離れた場所に彩花もいる。

 たまたまなのかもしれない。

 同じ部活なのだから、話をすることくらいある。

 そう思った。

 なのに。

 彩花が翔に何か話しかけた。

 翔が笑った。

 ただ、それだけだった。

 彩花も笑った。

 その笑顔が、昨日までとは違って見えた。

 嬉しそうだった。

 翔が何か言うたびに、目を細めて笑っている。

 翔も、そんな彩花を見て笑っている。

 二人の距離は、特別近いわけじゃない。

 触れてもいない。

 何か特別なことをしているわけでもない。

 それなのに。

 私には、二人の間にだけ柔らかな空気が流れているように見えた。

 まるで。

 もう、恋人みたいに。

「……やだ」

 小さく呟いて、自分でも驚いた。

 何が嫌なのか。

 分かっている。

 私は、翔が好きだから。

 だから、そう見えてしまう。

 本当は違うかもしれない。

 噂しか知らない。

 翔が彩花の気持ちを受け入れたのかどうかも分からない。

 なのに。

 一度そう見えてしまったら、もう元には戻れなかった。

 翔が笑うたび。

 彩花が嬉しそうにするたび。

 二人の間にある何でもない時間まで、特別なものに見えてしまう。

 私は窓から目を逸らした。

 こんな自分が嫌だった。

 彩花は何も悪くない。

 ただ翔が好きなだけ。

 私と同じように。

 そう思った瞬間、胸が苦しくなった。

 放課後。

 いつものように陸上部の練習が始まった。

 グラウンドには、昼間より少し強い風が吹いていた。

 雲の切れ間から夕陽が差し込み、濡れたトラックがところどころ光っている。

 私は高跳びのマットの横に立っていた。

 翔が助走位置につく。

 バーを見る。

 走る。

 踏み切る。

 跳ぶ。

 けれど、バーに触れた。

 カンッ。

 乾いた音を立てて、バーが落ちる。

 翔はマットに着地すると、すぐに起き上がった。

 落ちたバーを拾う。

 何も言わない。

 ただ、もう一度セットする。

 私はその姿を見つめていた。

 あんなに一生懸命なのに。

 私より高く跳びたいって、何度も挑戦しているのに。

 それなのに今の私は、翔の跳ぶ姿を見ていても、胸の中が晴れなかった。

「瑠夏」

「え?」

「次、跳ぶ」

「うん」

「ちゃんと見てて」

「……うん」

 翔は助走位置へ戻った。

 私はマットの横で、もう一度その背中を見る。

 そのとき。

「翔」

 後ろから声がした。

 振り返る。

 彩花だった。

 手に練習用のタオルを持っている。

「今日、まだやるの?」

「うん。もう少し」

「そっか」

 彩花が笑った。

 ほんの少しだけ、照れたような笑顔だった。

「じゃあ、頑張って」

「ありがとう」

 翔も笑う。

 その瞬間。

 胸の奥が、また痛くなった。

 ただ笑っただけ。

 本当に、それだけ。

 なのに。

 彩花の笑顔が、私にはあまりにも嬉しそうに見えた。

 翔の笑顔も。

 いつも見ているはずなのに、今日は違って見える。

 二人とも何もしていない。

 ただ話しているだけ。

 それなのに、私の目には――。

 まるで、二人だけの時間を過ごしているみたいに見えた。

 まるで。

 私には見えない約束でも交わしているみたいに。

 私は思わず視線を落とした。

「……瑠夏?」

 彩花が私を見る。

「どうしたの?」

「ううん」

 私は顔を上げて笑った。

「何でもないよ」

「そう?」

「うん」

 彩花は少し首を傾げたあと、翔のほうを見た。

「じゃあ、また明日ね」

「うん。また」

 彩花が離れていく。

 私は、その背中を見送った。

 嫌いになんてなれない。

 彩花は何も悪くない。

 むしろ、あんなふうに素直に好きな人へ気持ちを伝えられることが、少し羨ましかった。

 私はできない。

 翔が好き。

 ずっと好き。

 でも、言えない。

 もし言ってしまったら。

 もし翔が困ったら。

 もし今までみたいに話せなくなったら。

 そう考えるだけで怖かった。

「瑠夏」

 翔の声がした。

 顔を上げる。

「今の、どうだった?」

 バーの前に立った翔が、こちらを見ている。

「……良かったよ」

「ほんと?」

「うん」

「じゃあ、もう一回やる」

「うん」

 翔が笑う。

 私はその笑顔を見つめた。

 さっきまで彩花に向けていた笑顔と、同じだった。

 同じはずなのに。

 どうしてだろう。

 胸が苦しい。

 私は、知らない。

 翔が彩花に何と答えたのか。

 二人が今どういう関係なのか。

 本当は何も知らない。

 噂を聞いただけ。

 それなのに。

 もう、そう見えてしまう。

 翔と彩花が並んでいるだけで。

 笑い合っているだけで。

 私の知らないところで、二人の距離が近づいているように思えてしまう。

 私は小さく息を吐いた。

 今まで通りでいよう。

 そう決めた。

 翔には何も聞かない。

 彩花にも何も言わない。

 ただ、いつも通り隣にいる。

 それでいい。

 それしか、今の私にはできない。

 翔が助走を始めた。

 足音が近づいてくる。

 踏み切る。

 身体が宙へ浮く。

 私はその姿を見上げた。

 いつか。

 翔が私より高く跳ぶ日が来るまで。

 その日だけは、変わらず隣で見ていたい。

 そう願った。

 たとえ、その隣にいられる時間が、いつまでも続くとは限らなくても。