君のとなり〜拓実と〜

 夏休み。

 部活を終えた私は、校舎へ戻る途中、グラウンドの脇を通った。

 今日は夏期講習の日。

 受験生の拓実は、朝から講習に行っている。

 だから今日は、まだ会えていない。

 ふと、昨夜のことを思い出す。

 花火の夜。

 拓実と初めてキスをした。

 思い出しただけで、頬が熱くなる。

「……恥ずかしい」

 小さく呟いて、頬に手を当てた。

 そのとき――。

 グラウンドの奥から、走る音が聞こえた。

 顔を上げる。

 高跳びの助走路。

 そこに、一人で練習している人がいた。

「……翔くん」

 翔は、何度もバーに向かって走っていた。

 中学生の頃とは、全然違う。

 いつの間にこんなに伸びたんだろう。

 あの頃は、私とそれほど変わらない背丈だったはずなのに。

 今の翔は――高い。

 長い手足。

 しなやかな身体。

 そして、高跳び選手らしい鋭い動き。

 翔がこちらを振り向いた。

「あれ?」

 目が合う。

「瑠夏?」

「うん」

 翔が近づいてくる。

「拓実先輩は?」

「今日は夏期講習なんだって」

「夏期講習?」

「うん。受験生だもん。会えなくても仕方ないよ。今頃、頑張ってる」

「そっか」

 翔は短く答えた。

 瑠夏が嬉しそうに拓実の話をするのを見て、胸の奥が少し痛む。

 それでも翔は、その気持ちを表には出さなかった。

 好きな人が、自分の前で笑っている。

 それだけで嬉しい。

「瑠夏、ちょっとだけ来て」

「なに?」

 翔が高跳びのポールのほうを指差した。

「いいから」

「もう、翔くんって昔から強引なんだから」

 そう言って、瑠夏は翔についていった。

 ポールの近くまで来ると、翔が瑠夏を見る。

「身長、何センチ?」

「え?」

「だから、身長」

「……165センチ」

「でか!」

「失礼な!」

 瑠夏が頬を膨らませる。

 翔は思わず笑った。

「中学生のときは、もう少しちっちゃかっただろ?」

「私だってまだ成長するわよ」

「はいはい」

「翔くんこそ、大きくなりすぎ!」

「俺?」

「うん」

 瑠夏が翔を見上げる。

「今、何センチ?」

「179」

「……そんなに?」

「そんなに」

「中学生の頃、こんなに差なかったよね」

「まあな」

 二人で顔を見合わせる。

 そして、同時に笑った。

 中学生の頃みたいだった。

 何でもないことで笑っていた、あの頃。

 翔にとっては、その時間が少し苦しくて、それでも嬉しかった。

 好きな人が、自分の前で昔と変わらない笑顔を見せてくれる。

 それだけでよかった。

「よし」

 翔がバーのほうへ向き直った。

「見てろよ」

「え?」

「今から跳ぶ」

 翔がバーの高さを確認する。

 そして――。

 高さを、168センチに合わせた。

「あ……」

 瑠夏の胸が、きゅっとなる。

 覚えていてくれたんだ。

 あの頃の約束を。

 私の身長より高く跳ぶ。

 168センチを跳ぶ。

 いつか必ず――。

 そう言ってくれた約束。

 翔が助走路へ戻る。

 瑠夏は、黙ってその姿を見つめた。

 翔が走り出す。

 速い。

 踏み切る。

 身体が大きく弧を描く。

 そして――。

 バーを越えた。

 綺麗だった。

 とても綺麗な跳躍。

 中学生の頃、何度も見た光景。

 あの頃から変わらない。

 一番きれいで、一番高い跳躍。

 翔がマットに着地する。

 ゆっくりと起き上がり、こちらを見る。

 瑠夏は、少しだけ目を潤ませながら笑った。

「翔くん……」

「ん?」

「覚えていてくれたんだね」

 翔は、当たり前のように笑った。

「当たり前だろ」

 そして、まっすぐ瑠夏を見る。

「約束しただろ」

 瑠夏の胸が、じんと熱くなる。

 あの頃の約束を、翔はずっと覚えていてくれた。

 それが嬉しかった。

 大切な人が、自分との約束を忘れていなかったことが。

「……ありがとう、翔くん」

 夏の青空の下。

 168センチのバーは、まっすぐそこに立っていた。