君のとなり〜拓実と〜

 夏休み。

 学校はいつもより静かだった。

 新体操部は数日間の合宿に入り、瑠夏もしばらく学校を離れている。

 体育館にも、瑠夏の姿はない。

 グラウンドでは、陸上部がいつもと変わらず練習を続けていた。

 強い陽射し。
 乾いた土の匂い。
 蝉の声。

 その中で、翔は黙々とトレーニングを続けていた。

 高跳びの練習を終え、器具を片付けていると、後ろから声がした。

「翔」

 振り返る。

「……拓実先輩」

「ちょっといいか?」

「はい」

 拓実は、翔の隣に立った。

「瑠夏、今日から合宿なんだよな」

「はい」

「三泊四日だって言ってた」

「……よく覚えてますね」

「彼女だからな」

 拓実が笑う。

「しばらく会えないな」

「……そうですね」

 拓実が、ふっと笑った。

「あ〜、瑠夏不足だ」

「……」

 翔は思わず笑った。

「四日だけですよ」

「俺にとっては長いの」

 拓実はそう言って笑った。

 その笑顔を見て、翔も少しだけ笑った。

 けれど――

 拓実の表情が、ふっと変わった。

「……なあ、翔」

「はい」

「この前の大会のことなんだけど」

 翔の手が止まる。

「俺、ずっと気になってた」

「……何がですか?」

「瑠夏がお前の高跳びを見てた時の顔」

 翔は答えなかった。

「それに、お前も瑠夏を見てた」

 拓実の声は穏やかだった。

 責めるような響きはない。

 だからこそ、翔は逃げられなかった。

「……中学の頃からなんです」

 ぽつりと、翔が言った。

「瑠夏とは、中学で一緒に陸上部でした」

「高跳び?」

「はい」

 翔は、グラウンドの高跳びのピットを見る。

「俺、最初は瑠夏に負けるのが嫌でした」

「瑠夏のほうが高かった?」

「ずっと」

 翔が苦笑する。

「俺が必死になって跳んでも、瑠夏はその少し上を跳んでいくんです」

 拓実は黙って聞いていた。

「悔しくて。でも……」

 翔の視線が、遠くへ向く。

「瑠夏が跳ぶ姿を見るのは、好きでした」

 その言葉に、拓実の表情がわずかに変わる。

「ある日、瑠夏に言われたんです」

「何て?」

「いつか、私の身長より高く跳んでねって」

 翔は少し笑った。

「その時は、絶対跳んでやるって思ってました」

 拓実は何も言わなかった。

「怪我した時、一度はもう高跳びを辞めようと思ったんです」

 翔の声が少し低くなる。

「いつ復帰できるかも分からなかったし。復帰できたとしても、前みたいに跳べるか分からない」

 拓実は黙っている。

「でも……あの約束だけは、どうしても忘れられなかった」

 翔は自分の足を見る。

「瑠夏が言ったんです。いつか、私の身長より高く跳んでって」

 その言葉を、確かめるようにもう一度呟く。

「だから……もう一度跳びたいって思えたんです」

 拓実は何も言わなかった。

 ただ、翔の話を聞いていた。

 ようやく分かった。

 これは、昔好きだった女の子を今でも少し気にしている――そんな簡単な話じゃない。

 瑠夏は。

 翔にとって、ずっと特別だった。

 怪我をして、高跳びを失いかけた時でさえ、その存在が翔を繋ぎ止めていた。

 拓実は、静かに息を吐いた。

「……お前、瑠夏のこと」

 そこで言葉を止める。

 翔は、しばらく黙っていた。

 そして――

「好きです」

 拓実を見る。

 真っ直ぐな目だった。

「……今も、瑠夏が好きです」

 拓実は、その言葉を静かに受け止めた。

「……そうか」

 短い言葉。

 しばらく二人の間に沈黙が流れる。

 やがて拓実が、静かに口を開いた。

「……お前、まだ瑠夏が好きなんだな」

「……はい」

 迷いのない返事だった。

 拓実の胸の奥が、少しだけ痛む。

 それでも、目を逸らさなかった。

「そうか」

 拓実は小さく息を吐いた。

「それでも、瑠夏は俺の彼女だから」

「分かってます」

 翔は頷いた。

「拓実先輩が瑠夏を大切にしてることも、分かってます」

「だったら――」

「でも」

 翔が拓実を見る。

「俺も、瑠夏が好きです」

 真っ直ぐな目だった。

 言い訳もしない。

 奪おうともしない。

 ただ、自分の気持ちだけを伝える。

 拓実は、その目を見つめ返した。

 不思議と、怒りは湧かなかった。

 むしろ――

 この男も、本気なんだと思った。

「……そうか」

 拓実は小さく笑った。

「じゃあ、俺も負けるつもりはない」

「……はい」

 二人の間に、しばらく静かな空気が流れた。

 けれど、ふいに拓実が大きく息を吐く。

「あ〜、瑠夏不足だ〜」

「……」

「瑠夏、抱きしめてぇ」

 翔が、思わず笑った。

「俺も抱きしめてぇ」

「おい」

 拓実が笑いながら翔を見る。

「ダメだ。俺の彼女なんだから」

「ですよね」

 二人で笑う。

 さっきまで張り詰めていた空気が、少しだけ柔らかくなった。

 夏の風が、二人の間を通り抜けていった。

 瑠夏がいない数日間。

 その場所で。

 瑠夏を一番大切に思っている二人の男が、初めて互いの気持ちを知った。

 けれど――

 その会話を、瑠夏は知らない。

 まだ何も知らないまま。

 合宿から帰ってくる。

 いつもの笑顔で。

「ただいま」

 そう言って。

 まさか自分の知らないところで、自分を巡る二人の気持ちが交わされていたなんて。

 知る由もなかった。