君のとなり〜拓実と〜

 空は、どこまでも青かった。

 朝から照りつける太陽の下、競技場には選手たちの掛け声や、スタンドからの声援が響いている。

 今日は陸上部の大会。

 私はスタンドから、トラックを見つめていた。

 これから始まるのは、男子100メートル。

 スタートラインには、何人もの選手が並んでいる。

 その中に――拓実がいた。

 いつもの制服姿とは違う。

 陸上のユニフォームを身につけた拓実は、別人みたいだった。

 高い身長。
 すらりと伸びた手足。

 スタートラインに立つだけで、周囲の空気まで変わって見える。

 同じ学校の女子たちからも、あちこちで声が飛んでいた。

「拓実先輩、頑張ってー!」

「拓実ー!」

 私は思わず笑ってしまう。

 やっぱり、人気者なんだ。

 すると、拓実がふっと顔を上げた。

 スタンドを見渡している。

 そして――私を見つけた。

 目が合う。

 拓実の口元が、わずかに緩んだ。

 私も手を振る。

「拓実ー! 頑張って!」

 拓実は小さく頷いた。

 その表情が、いつもの優しい拓実とは違っていた。

 真剣で。
 鋭くて。

 これから勝負する人の顔。

 胸が、どきっとした。

 スターターが構える。

 選手たちが低く身を沈める。

 競技場の空気が、一瞬で静かになった。

 ――パンッ!

 乾いた音が響く。

 拓実が飛び出した。

 速い。

 一歩目から、身体が前へ伸びていく。

 長い脚が力強く地面を蹴るたび、ぐんぐん加速していく。

 私は思わず立ち上がっていた。

「拓実……!」

 最後までフォームを崩さない。

 そのまま一気にゴールへ駆け抜けた。

 歓声が上がる。

 私は夢中で拍手をした。

「すごい……!」

 タイムが表示される。

 拓実はそれを確認すると、ふっと息を吐いた。

 そして、またスタンドを見る。

 私を見つけると、今度は少しだけ得意そうに笑った。

 思わず私も笑う。

 ――かっこいい。

 素直にそう思った。



 午後。

 4×100メートルリレー。

 拓実はアンカー。

 私はスタンドの一番前で、ずっとトラックを見ていた。

 第一走者がスタートする。

 バトンが渡る。

 第二走者。

 第三走者。

 そして――最後の直線。

 第四走者の選手がバトンを受け取った。

 拓実だ。

「拓実ー!」

 思い切り叫ぶ。

 拓実が走る。

 前を走る選手との差は、まだある。

 でも、拓実のスピードが落ちない。

 むしろ、ここからだった。

 ぐん、と身体が前へ出る。

 少しずつ。
 少しずつ。

 差が縮まっていく。

「いけー!」

 スタンドの声が一つになった。

 拓実が並ぶ。

 追い越す。

 最後の直線。

 さらに加速する。

 ゴール。

 大きな歓声が競技場を包んだ。

「……すごい」

 私は何度も拍手をした。

 チームメイトと喜び合う拓実。

 その中から、拓実がこちらを見る。

 私は両手を振った。

 拓実も笑った。

 しばらくして、拓実がスタンドまでやってきた。

「応援ありがとな」

「ううん。お疲れ様」

「どうだった?」

「すごく速かった」

「だろ?」

 拓実が、ちょっとだけ得意そうな顔をする。

「ふふっ。自分で言う?」

「だって、瑠夏がちゃんと見ててくれたから」

「……え?」

「見てただろ?」

「うん」

「じゃあいい」

 拓実が笑う。

 その笑顔を見ていると、胸が温かくなる。

 優しくて。
 かっこよくて。

 一緒にいると、自然に笑える。

 私は、この人と付き合えてよかった。

 そう思った。

 そのとき。

 競技場のアナウンスが響いた。

『男子走り高跳び、競技開始です』

 その声に、私は反射的に顔を向けた。

 グラウンドの向こう。

 高跳びのピット。

 そこに――

 翔がいた。

「……翔」

 名前が、口からこぼれた。

 拓実も、私の視線を追う。

「翔か」

「……うん」

 私はもう一度、翔を見た。

 久しぶりに、近くで見る。

 いや。

 体育館からは、ずっと見ていた。

 でも、こうして同じ場所にいると、胸の奥が少しだけざわついた。

 翔がバーの前に立つ。

 160センチ。

 私は無意識に手を握った。

 翔が助走に入る。

 踏み切った。

 身体が宙へ舞う。

 背中からバーを越える。

 ――成功。

 バーは落ちなかった。

 翔がマットから起き上がる。

 その瞬間。

 翔がこちらを見た。

 目が合った。

 そして、翔が右手を小さく握る。

 胸の奥が、きゅっとなる。

 中学生の頃と同じサイン。

 私は胸の前で、そっと拳を握った。

 翔が笑う。

 私も笑った。

 あの頃と同じ。

 何年経っても変わらない。

 そのことが、嬉しかった。

 けれど。

 バーが上がる。

 165センチ。

 私は息を呑んだ。

 翔が助走位置につく。

 周囲のざわめきが遠くなる。

 翔だけを見ていた。

 助走。

 踏み切り。

 身体が浮く。

 ――バーが落ちた。

「……っ」

 一回目。

 失敗。

 翔はマットから起き上がった。

 そして、ほんの一瞬だけ顔をしかめた。

 視線が、自分の足元へ落ちる。

 私は眉を寄せた。

 翔は何事もなかったように待機場所へ戻っていく。

 けれど。

 次の試技を待っている間も、何度か怪我をした足へ視線を落としていた。

 靴の中で足首を動かすような仕草。

 つま先に、そっと体重をかける。

 また戻す。

 その様子を見ていると、胸の奥がざわついた。

 ――大丈夫?

 あの足は、一度翔から高跳びを奪った。

 長いリハビリをして。

 ようやく戻ってきた。

 なのに。

 また……?

「……翔」

 思わず名前を呟く。

 翔の順番が近づいてくる。

 翔は一度、深く息を吐いた。

 そして、もう一度助走位置へ向かう。

 私は祈るような気持ちで見つめた。

 助走。

 踏み切る。

 身体が浮く。

 ――また、バーが落ちた。

 二回目。

 失敗。

 翔はマットに着地する。

 立ち上がる。

 そして――

 また足を気にした。

 その瞬間。

 胸の奥に、冷たいものが走った。

 違う。

 ただの失敗じゃない。

 翔は、足を気にしている。

 もし、ここでまた無理をしたら。

 また怪我をしたら。

 また跳べなくなったら。

 そう思った瞬間、身体が勝手に動いた。

「だめ!」

 自分でも驚くほど大きな声が出た。

 周囲の視線が集まる。

 それでも、もう止められなかった。

「翔!」

 翔がこちらを見る。

 私は立ち上がったまま叫んだ。

「跳ぶの、やめて!」

 翔の表情が止まる。

 その直後、監督が翔のもとへ向かった。

「翔」

「……大丈夫です」

「足は?」

「大丈夫です。もう一回、跳べます」

「翔」

 監督の声が低くなる。

「今、自分で足を気にしただろ」

 翔は黙った。

「復帰したばかりだ。ここで無理して、また怪我したらどうする」

「……」

「今日は終わりだ」

 翔がバーを見る。

 165センチ。

 あと一回。

 それでも翔は、しばらく動かなかった。

「……まだ、跳べます」

「跳べるかどうかじゃない」

 監督が静かに言った。

「次に跳ぶために、今日はやめるんだ」

 翔は唇を噛んだ。

 そして、ゆっくりと息を吐く。

「……はい」

 小さく頭を下げた。

 翔は、その場を離れていく。

 私はようやく、張り詰めていた息を吐いた。

「……よかった」

 その声を聞いていた拓実が、私を見る。

 私は翔の後ろ姿から目を離せなかった。

 拓実は、何も言わない。

 ただ、私の横顔を見ている。

 私はまだ気づいていなかった。

 自分がどんな顔をしているのか。

 自分が、誰を見つめているのか。

 そして――

 拓実だけが、気づいていた。

 瑠夏の心が、もう自分だけを見てはいないことに。