君のとなり〜拓実と〜

 放課後。

その日の私は、日直の仕事が残っていた。

みんなが帰っていく教室で、私は黒板をきれいにしていた。

最後の文字を消して、黒板消しについたチョークの粉を払う。

「……これで終わり」

そのときだった。

「瑠夏」

聞き慣れた声が、後ろから聞こえた。

振り返る。

教室の入り口に、拓実が立っていた。

「……拓実?」

「まだ日直だったんだ?」

「うん。今、終わったところ」

「そっか」

拓実が教室の中へ入ってくる。

「待っててくれたの?」

「うん」

当たり前みたいに笑う。

「瑠夏と一緒に帰りたかったから」

その言葉に、胸がふわっと温かくなった。

「……嬉しい」

「俺も」

拓実が笑う。

その笑顔を見るだけで、自然と頬が緩んだ。

私は鞄を持ち上げる。

「じゃあ、帰ろう」

「うん」

そう答えたのに。

拓実は、動かなかった。

「……拓実?」

名前を呼ぶ。

すると、拓実が一歩近づいた。

「ん?」

「どうしたの?」

「……もうちょっとだけ」

「え?」

「瑠夏と一緒にいたい」

その言葉に、胸がきゅっとなる。

「……私も」

そう答えると、拓実が嬉しそうに笑った。

「ほんと?」

「うん」

「よかった」

そのまま、また一歩。

距離が縮まる。

気づけば、私は壁際に立っていた。

「……拓実?」

拓実の腕が、私のすぐ横の壁につく。

近い。

いつもより、ずっと近い。

心臓が大きく跳ねた。

「瑠夏」

優しく名前を呼ばれる。

顔を上げると、拓実が少し照れたように笑っていた。

「最近、名前で呼んでくれるようになったの、嬉しい」

「……まだ恥ずかしいけど」

「知ってる」

「だから、あんまり見ないで」

「無理」

「もう……」

思わず笑ってしまう。

拓実も笑った。

そのまま、拓実の指が私の髪に触れる。

耳の横に落ちていた髪を、そっと払ってくれた。

「……可愛い」

「……っ」

顔が熱くなる。

「そういうこと言わないで」

「なんで?」

「恥ずかしいから」

「俺は言いたい」

そう言って、拓実が私を見る。

その瞳が、いつもより近い。

「……瑠夏」

「……なに?」

拓実の手が、そっと私の頬に触れた。

その瞬間。

胸が、どくんと鳴った。

拓実の顔が、ゆっくり近づいてくる。

逃げようとは思わなかった。

拓実のことが好き。

付き合えて嬉しい。

もっと近くにいたい。

だから――。

私は、目を閉じた。

受け入れようと思った。

その、本当に一瞬だった。

――翔。

中学生の頃のグラウンド。

高跳びのマット。

何度失敗しても、何度も跳ぼうとしていた翔。

『いつか、私の身長より高く跳んでね』

あの約束。

どうして。

どうして今、思い出すの?

「……っ」

気づいたときには、両手が拓実の胸に触れていた。

「……待って」

拓実の動きが止まる。

私は俯いた。

「……ごめんなさい」

「瑠夏?」

「違うんです……」

拓実が静かに私を見る。

「拓実が嫌なんじゃない」

それだけは、ちゃんと伝えたかった。

「じゃあ……?」

拓実の声が、少しだけ寂しくなる。

私は唇を噛んだ。

言えない。

翔を思い出した。

そんなこと、言えるはずがなかった。

「……分からない」

やっと出てきた言葉は、それだけだった。

拓実はしばらく黙っていた。

やがて、ふっと優しく笑う。

「……謝らなくていいよ」

「でも……」

「瑠夏が嫌がることはしたくないから」

そう言って、拓実は一歩下がった。

その優しさが、胸に刺さった。

「……ありがとう」

小さく呟く。

すると拓実は、私の手をそっと取った。

「じゃあ、今はこれで我慢する」

「……え?」

手の甲に――

ちゅっ。

「……っ!」

一瞬で顔が熱くなる。

拓実はそんな私を見て、少し照れたように笑った。

「かわいい」

「……もう……」

恥ずかしくて、俯いてしまう。

拓実が私の鞄を持ち上げた。

「ほら、帰ろう」

「うん」

教室を出る。

廊下を並んで歩く。

すると拓実が、そっと手を差し出した。

「手」

「……うん」

その手を取る。

指が絡まる。

温かい。

「……拓実」

「ん?」

「……手、繋いで帰ろ」

「もちろん」

握られた手が、ぎゅっと強くなる。

私はその温もりを感じながら、拓実の隣を歩いた。

幸せ。

拓実と一緒にいることが嬉しい。

それなのに――。

胸の奥には、まだ小さな痛みが残っていた。

どうして、あの瞬間に。

翔を思い出したんだろう。