君のとなり〜拓実と〜

 文化祭が終わった翌朝。

いつものように制服に袖を通して、鏡の前に立つ。

昨日までとは何も変わっていない。

同じ制服。
同じ髪型。
同じ通学路。

なのに――。

胸の奥だけが、少し違っていた。

昨日の夜。

後夜祭の花火を、拓実先輩と一緒に見た。

あんなに近くで、隣に並んで。

「寒くない?」

そう言って、私の顔を覗き込んだ拓実先輩。

「大丈夫です」

そう答えたのに、先輩は少し笑って、

「ならよかった」

とだけ言った。

その声を思い出しただけで、胸が熱くなる。

昨日から、頭の中は拓実先輩でいっぱいだった。

朝起きても。
制服に着替えていても。
通学路を歩いていても。

気づけば、昨日の先輩の言葉を思い出している。

「もっと俺のこと、見てほしい」

その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。

不思議だった。

昨日までなら、こんなふうに誰かのことばかり考えるなんて、なかったのに。

今は、拓実先輩が何をしているのか。
今日、会えるのか。
どんな顔で話しかけてくれるのか。

そんなことばかり気になってしまう。

翔のことさえ、今は頭に浮かばなかった。

そして、もうひとつ。

花火が終わったあと。

人の波が動き始めた中で、拓実先輩が私のほうを見て言った。

「返事、急がなくていいから」

優しい声だった。

その言葉が、ずっと心に残っている。

私はまだ、答えを出していない。

でも――。

拓実先輩のことを考えると、自然と頬が緩んでしまう。

これって……。

もしかして。

私は、拓実先輩のことを――。

「瑠夏ー! 遅れるよ!」

玄関の外から声がして、私は慌てて鞄を掴んだ。

「今行く!」

家を出る。

いつもの道を歩きながら、何度もスマホを確認してしまう。

まだ、何も届いていない。

なのに。

何を期待しているんだろう。

そう思った瞬間。

スマホが震えた。

画面を見る。

《おはよう、瑠夏ちゃん。昨日、ちゃんと眠れた?》

思わず立ち止まった。

頬が熱くなる。

私は周りを見回してから、急いで返信した。

《おはようございます。眠れましたよ》

送信。

数秒もしないうちに、また通知が届く。

《よかった。俺はちょっと興奮して寝つけなかった》

その文章を見て、思わず笑ってしまった。

《文化祭が終わったからですか?》

そう送ると、

《それもあるけど》

少し間を置いて、

《昨日、瑠夏ちゃんと花火見たから》

と返ってきた。

心臓が、大きく跳ねた。

昨日のことを思い出す。

夜空に広がった花火。

その隣にいた拓実先輩。

近かった距離。

そして――。

「俺のこと、もっと見てほしい」

告白されたときの言葉。

スマホを胸元に抱きしめる。

どうしてこんなに嬉しいんだろう。

まだ付き合っているわけじゃない。

返事だってしていない。

それなのに。

拓実先輩から連絡が来るだけで嬉しい。

名前を呼ばれるだけで嬉しい。

一緒にいる時間を思い出すだけで、胸がいっぱいになる。

私は少しずつ――。

拓実先輩に惹かれている。

そんな気がした。



週が明けた、放課後。

文化祭が終わってから初めての月曜日。

文化祭が終わったからといって、部活まで休みになるわけじゃない。

私はいつものように新体操部の練習を終え、体育館を出た。

すっかり暗くなった校舎の廊下を歩いていると、昇降口のあたりに人影が見えた。

近づいていく。

その姿に気づいた瞬間、足が止まった。

「……拓実先輩?」

拓実先輩だった。

壁にもたれながら、スマホを見ている。

私に気づくと、先輩は顔を上げて笑った。

「お疲れ、瑠夏ちゃん」

「お疲れさまです……」

私は驚いたまま、先輩のところまで歩いていく。

「どうしたんですか?」

「ん?」

「こんなところで……」

先輩は少し照れたように笑った。

「待ってた」

「……私を?」

「うん」

その一言だけで、胸が大きく跳ねた。

「でも、部活終わる時間なんて……」

「文化祭のときに聞いてたから」

何気ない口調。

でも、私のことを覚えていてくれたことが嬉しかった。

「どうして待ってたんですか?」

少しだけ上目遣いに聞く。

すると拓実先輩は、ほんの少しだけ視線を逸らした。

「……一緒に帰りたかったから」

その言葉に、胸の奥がきゅっとなる。

文化祭が終わったら、実行委員という理由はなくなる。

それでも。

先輩は私と一緒にいたいと思ってくれている。

それが、たまらなく嬉しかった。

「……はい」

自然と笑顔になる。

「一緒に帰りましょう」

拓実先輩も笑った。

「うん」

並んで歩き始める。

「文化祭、終わっちゃったね」

先輩が言う。

「はい。なんだか寂しいです」

「俺は、ちょっと安心してる」

「どうしてですか?」

「文化祭が終わったら、瑠夏ちゃんに避けられるんじゃないかって……ちょっと思ってたから」

思いがけない言葉に、足が止まりそうになった。

先輩は少し照れたように笑った。

「告白したあとだからさ。返事を急がせたくはなかったけど……正直、もう話してもらえなくなるのは嫌だった」

「……先輩」

「でも、こうして一緒に帰ってくれるなら……安心した」

私は少しだけ俯いた。

嬉しい。

その気持ちは、もう隠せなかった。

「……はい」

小さな声で答える。

すると拓実先輩が、嬉しそうに笑った。

「よかった」

その笑顔を見ていると――。

もっと、この人のことを知りたい。

そう思った。

好きなもの。

苦手なもの。

休日に何をしているのか。

どんな音楽を聴くのか。

どんな未来を考えているのか。

そんなことまで知りたくなる。

そして。

私のことも、もっと知ってほしい。

そんな気持ちが、少しずつ大きくなっていく。



駅に着く。

いつもなら、ここで別れる。

「じゃあ、また明日」

拓実先輩が言う。

「はい。また明日」

そう答えて、先輩が歩き出す。

なのに。

なぜか、もう少しだけ一緒にいたいと思った。

「……先輩」

振り返る。

「ん?」

「……今日は、ありがとうございました」

何を言いたいのか自分でも分からない。

ただ、もう少し話していたかった。

拓実先輩はそんな私を見て、優しく笑った。

「こちらこそ」

そして、少しだけ首を傾ける。

「瑠夏ちゃん」

「はい?」

「待ってる」

文化祭の夜にもらった、その言葉。

今は、その言葉が少し違って聞こえた。

胸の奥が、じんわり温かくなる。

私は一度、小さく息を吸った。

そして、拓実先輩をまっすぐ見た。

「……私も、先輩と一緒にいたいです」

拓実先輩の目が、大きく見開かれる。

「それって……」

私は恥ずかしくて俯きながら、それでもちゃんと頷いた。

「……はい」

その瞬間。

「……瑠夏」

初めて呼び捨てにされた名前が、耳に落ちる。

次の瞬間。

ぎゅっ、と身体を抱きしめられた。

「……えっ」

突然のことに、身体が固まる。

でも、嫌じゃなかった。

拓実先輩の腕の中は温かくて、心臓の音が聞こえそうなくらい近い。

「……嬉しい」

耳元で、拓実先輩が小さく呟いた。

「ほんとに……嬉しい」

その言葉で、胸がいっぱいになる。

私も、そっと先輩の制服を握った。

「……私も、嬉しいです」

腕の力が、少しだけ強くなる。

「これから、よろしくな。瑠夏」

「……はい」

顔を上げることはできなかった。

恥ずかしくて、胸がいっぱいで。

ただ、拓実先輩の腕の中で、小さく笑った。

この日。

私は拓実先輩の恋人になった。

その日。

家に帰ってからも、拓実先輩との会話を何度も思い出した。

スマホに残ったメッセージを開いては、また閉じる。

そして、最後には。

小さく呟いた。

「……私、先輩のこと……好き」

拓実先輩と一緒にいると、嬉しい。

もっと一緒にいたい。

もっと知りたい。

もっと、私のことを見てほしい。

その気持ちは、もう確かに私の中にあった。

窓の外には、文化祭の夜に見たものと同じ空が広がっている。

私はその空を見上げながら、そっと胸に手を当てた。

昨日より少しだけ速くなる鼓動。

その理由を、私はまだ言葉にできなかった。

けれど――。

私の中で、何かが静かに動き始めていた。