未練なんてありませんが?

別サイトの方でコミカライズのコンテストに受賞させていただき、その記念として書いたSSです。
お楽しみいただけますと幸いです。

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 暖かな日差しが差し込む窓を見遣り、私はほぅ、と吐息した。
 羽ペンを動かす手を止め、一時、執務机の書類から目を離す。

「このところ、随分暖かくなってきたわね。暑いくらい。……そういえば、赤ちゃんってすごく汗をかくのよね……」

 奉仕活動で教会を訪れた時、預けられたばかりの赤ちゃんを目にしたことがあった。そのことを思い出す。
 その小さな身体から、どうやってそんな大声が出ているのかと驚くくらい酷く泣いていて、とてもハラハラした。
 けれど、シスターが抱き上げ、微笑みながらゆらゆらと揺らしてあやしていると、その赤子は泣きやみ、やがて寝息を立て始めた。

「あの時は、どうしようかとオロオロしてしまったわ。けれど……眠っている赤ちゃんは、とても愛らしかったわね。教会という場所のせいか、まるで天使みたいだった……」

 ふふ、と笑みが零れる。

 私は、それまで間近で赤子を見たことなどなかった。だから、ついじっくりと観察してしまった。
 生まれた時、人はこんなにも小さくて、今にも壊れてしまいそうなほどにか弱いのだと。けれど、ひとたび声をあげれば、その見た目など吹き飛ばすくらいに自らを主張し、その存在は生命力に溢れているのだと、そう気づかされた。
 愛らしく、且つ、たくましい。

 もちろん、このような子ばかりではないことも知っている。
 でも、初めて間近にする赤子が、この子でよかったと思った。
 教会に預けられた子なので、産んだ母親はいない。父親もいない。決して恵まれた子ではない。
 それでも、この子はこうして生きている。この先、幸せになれる可能性だってちゃんとある。

 すやすやと眠る赤子の額に、一筋の髪がかかっていた。それを、シスターが優しくはらう。その額には、いくつもの小さな雫があった。
 力いっぱい泣いた赤子は、額を濡らすほど汗をかいていたのだ。
 シスターは、赤子は大人よりも体温が高く、頻繁に汗をかくものなのだと教えてくれた。

「……そうだわ」

 私はすっくと立ちあがる。
 とその時、ノックの音がした。

「ニコラ、そこにいますか?」

 ドアの外から聞こえてくるのは、私の愛しい旦那様の声。
 私は歩いていき、その扉を開ける。

「エヴァン」
「ああ! やっぱりここにいた!」

 エヴァンはそう言って、ガクリと項垂れた。
 そして、上目遣いで私を見る。

「ニコラ、仕事は控えるという約束でしたよね?」
「え……っと……」

 思わず、フイと視線を逸らす。

 そう言えば、そんな約束をしたような……?

「安定期に入るまでは、無理は禁物だとあれほど言い聞かせたのに」
「で、でも、じっとしているのは性に合わないというか……」
「ニコラ」
「……はい」

 エヴァンは部屋に入るついでに、私を軽々と抱き上げる。

「きゃあっ」
「実力行使しないと、ニコラは私の言うことを聞いてくれないようですから」
「そんなことは……」
「ないと言えますか?」

 そして、ソファに腰かける。
 ──私を抱いたまま。

「……下ろしてもらえる?」
「嫌です」
「おとなしくするから」
「だめです」
「……エヴァン」

 恨めしそうに見上げてみても、エヴァンはふるふると首を横に振った。
 私ははぁ、と溜息をつき、力を抜いて身体を預ける。
 すると、エヴァンは優しげに目を細めながら、私の顔を覗き込んできた。

「気分が悪いとかありませんか?」
「大丈夫よ。……ったく心配性なんだから」
「当然です」
「病気じゃないのよ?」
「とはいえ、出産は命がけなんです。それまでの期間は、普段以上に健康に気を配らなければいけません」
「そうよ。だから、少しは動かないと」
「散歩くらいなら何も言いません。が、ニコラのやっていたことは何ですか?」

 エヴァンの視線が執務机の方に向く。
 私は、しばらくの間沈黙。そして、渋々と言った。

「仕事を取り上げられるのは辛いわ」
「取り上げていません。今後の商品開発やら、いろいろと相談に乗ってもらっているじゃないですか。ですが、書類仕事は全部私がやると言いましたよね? ニコラはそういったことではなく……」
「わかってる」

 私とエヴァンは、昨年結婚した。
 エヴァンが学院を卒業してから半年後のことだ。

 私たちが結婚した後も、オマリー伯爵家はこれまでどおり、お父様とお母様、私とエヴァンで暮らしている。
 お父様はまだまだ元気で精力的に活動しているし、伯爵位を譲るのはもっと先の話になるだろう。私に譲った後、二人は別邸に移り住むことになっている。

 だから、結婚後もそれほど生活は変わらない……と思っていた私は、とんでもなく浅はかだった。

 婚約してからのエヴァンは箍が外れたように甘くなり、フランシスとの婚約時とは全く違う日々が待っていた。
 最初だけかと思いきや、そうではなかった。日々、増していった気がする。
 それでも、最高潮は結婚式までだろう、と高をくくっていた。が、これもまた見事に外れる。

『ようやくニコラに触れられる』

 そう言われた時は、今更何を言っているのかと思った。
 何故なら、抱きしめられたり、口づけたり、そういった触れ合いはすでにあったから。
 でも、初夜を迎えた時、私は己の迂闊さを呪う羽目になったのだった。

 ああああああ! 私の、私の馬鹿! うっかりにも程がある!

 「触れる」とは、当然ながら、その言葉のままではなかったのだ。

 毎夜、思いの丈をこれでもかと囁かれ、朝まで離してもらえない。
 幸せではあったけれど、正直に言えば、エヴァンからの愛情に溺れそうだった。
 否、溺れた。ブクブクブク。

 ……という訳で、現在、私の中にはもう一つの命が宿っている。

「いろいろアイディアをまとめていたのよ。頭の中を整理するには、この部屋が一番なの。だから来ていただけ。仕事は……してないわよ?」
「……怪しいですね」
「……」
「まぁ、いいでしょう」

 エヴァンが小さく肩を竦め、私に微笑みかける。
 ようやく解放してもらえると、私も笑みを浮かべると、軽く口づけされた。

「……っ」
「いまだにそんな可愛らしい反応をしてくれるなんて、本当にニコラは私をどうしたいのでしょうね」

 そんなことを言って笑うその顔は、私にはとても凶悪に見える。
 プイと横を向くと、エヴァンが困ったような声をあげた。

「ニコラ」
「エヴァンが悪いんだから」
「はい、私が悪いです」
「もう! そんなにすぐに降参しないで!」

 振り返ると、エヴァンの顔が満面の笑みに変わる。

 あぁ……エヴァンには本当、敵わない。

 やれやれと、私は心の中で白旗をあげた。
 そして、私は相変わらずエヴァンの膝の上。抱きかかえられたままである。

「あのね、一つ思いついたの」
「聞かせていただけますか?」

 私はコクリと頷く。そして、思いついたことを話し始めた。

「赤ちゃんの肌着のことなの」
「肌着……オマリー絹(シルク)で作ったものが、もう大量に部屋にありますよね?」

 私の妊娠がわかってから、両親とエヴァンは狂喜乱舞し、まだ生まれてもいないし性別もわからないにもかかわらず、肌着やらおもちゃやら、ベビー用品を大量に買い集めたのだ。
 それらは、未来の子ども部屋にデンと鎮座している。

「それはわかっているわよ。私が言いたいのは、肌着の生地のことなの。絹ももちろんいいんだけど、綿もいいんじゃないかと思って」
「綿、ですか?」

 エヴァンが訝しげな顔をする。

 それはそうだ。綿が普及するようになったのは比較的最近のことで、あまり一般的ではない。希少なものなのだ。
 綿花を栽培する領も増えてきてはいるけれど、まだ珍しいと言える。
 ──でも。

「エヴァンの言いたいことはわかるわよ。でもね、綿は高い吸水性と通気性があって、そして何より丈夫なの! 肌着は何度も洗濯するでしょう? 絹はすぐに傷んでしまうわ」

 エヴァンは私の言葉に頷きながらも、あまり納得していないよう。
 無理もない。だって、貴族なら、何度も洗濯したものなんて着せないもの。高位貴族になるほどそうだ。
 でも、私が思いついたのは、対象が高位貴族だけではない。

「赤ちゃんの肌着に適していて、それでいて絹よりも丈夫な布を作りたいの」
「!」

 エヴァンの瞳が大きく見開いた。
 ようやく、私の言わんとすることがわかったのだろう。

「赤ちゃんに適したといえば、肌触りが優しいものですよね?」
「そう。ふわっふわの」
「……」

 すぐさま、エヴァンが真剣な表情になる。時折ブツブツと何か呟いている。
 ──エヴァンが本気になった。

 その隙に、私はエヴァンの膝から下りようとする。

「……んっ、くっ」
「逃がしませんよ」

 エヴァンがこちらを向いて、ニヤリと笑う。

 ……今のうちだと思ったのに!

「いい加減、下ろしてもらえるとありがたいんだけど?」
「ニコラを自由にしたら、また仕事を始めそうです」
「仕事なんてしていないわ」
「本当ですか?」
「本当よ!」
「なら……」

 エヴァンは、優しく私の右手をとった。

「ここにインクがついているのは、どういうことでしょうね?」
「!!」

 私は咄嗟にそれを隠そうとするけれど、後の祭りだ。
 部屋に入った時は、そんなつもりじゃなかった。本当に、考えをまとめるためにここに来たのだ。けれど、机に置いてあった書類をつい見てしまった。
 そうなると、何もしないわけにはいかず……というか、条件反射のように仕事を始めてしまったのだ。それが、呆気なくバレた。

 そろりとエヴァンを見ると、生温かい視線を送られる。

「気持ちはわかりますが……せめて安定期に入るまでは我慢してください」
「……わかったわ」

 妊娠初期は、まだ不安定な時期。とはいえ、少しの書類仕事くらいは問題ないと思うのだけど。
 それでも、控えてほしいと願うのは私の身を案じてのこと。それは、痛いほどよくわかる。

「ごめんなさい」
「いいえ。私も、過剰なまでに心配しすぎているとは思うのですが……それでも止められません」
「ええ、ちゃんとわかってるから」

 コテンと頭をエヴァンの胸に預けると、ふわりと抱きしめられた。

「柔らかな綿の肌着の開発、早速始めましょう。ターゲットは平民も入っているのでしょう?」

 さすがエヴァン。
 何も言わなくても、きっとエヴァンならわかっている。赤子の話が出た時から、お腹の子のことだけじゃなく、教会で出会ったあの子のことも、私が思い浮かべていることを。

「繊維が長いものの方が肌触りのよい糸が作れるとのことなので、その種のものからいろいろ試していきます。確か、アボット領のものがそうだったか……。すぐに買い付けます。加工の工程で何らかの工夫をすれば、赤子の肌にも適するような糸、そして布ができるはず。あと、品質にそれなりの差をつければ、平民と貴族双方に販売することは可能でしょう」

 私は笑顔で頷いた。

「私もそう思うの。……身分に関係なく、赤ちゃんは快適に、健やかに育ってほしいのよ。そしてもし間に合えば……この子にも着せたいわ」

 お腹に手を当てると、その上にエヴァンの大きな手が重ねられる。

「そうですね。……間に合わせます」

 その力強い声が頼もしい。
 エヴァンを見上げると、優しくも熱を帯びた視線とぶつかった。

「オマリー絹(シルク)の次は、オマリー綿(コットン)ですね。肌着だけではなく、ブランケットなどもよさそうです。ふわふわの綿のブランケットに包まれたニコラの赤ちゃんは、きっとこの世のものとは思えないほど愛らしいでしょうね」
「ちょっと違うわ」
「?」

 私は、笑ってこう訂正した。

「私の、じゃなくて、私たちの、でしょう?」

 その瞬間、エヴァンが破顔する。
 そして、私を抱く手にほんの少し力がこもった。

「……はい。私たちの子どもです」

 そっと、お腹を撫でる。
 まだたいして膨らみもなく、本当にここに一つの命があるのかと疑いたくなってしまうけれど。
 でも、確かに存在する。

「早く……あなたに会いたいわ」
「はい。私も……」

 私たちは顔を合わせ、微笑み合う。
 その時、窓から差し込む光が、重なった私たちの手を明るく照らした。

「このタイミング……もしかして、お腹の子が返事をしてくれたのでしょうか」
「まさか! でも……そうだといいわね」

 私の中で育まれている愛しい「命」。
 私は今、誰よりも何よりもこの子を大切にして、慈しみ、守らなければならない。それが使命なのだ。

「エヴァン、私、頑張るから!」

 すると、エヴァンは眉を下げ、困ったように溜息をつく。

「そうではなく……お願いですから、頑張らないでください」
「……むぅー」

 小さく唸る私を、エヴァンは再び抱きしめた。
 私と子どもの、二人をまるごと抱えるように──。


 了