未練なんてありませんが?

「昨日ご招待いただいたお茶会でね、他にもいろいろと言いたいことはあったんじゃないかって、グローリア殿下に言われたの」

 膨大な仕事をこなす傍らで、私は思い出したように呟いた。
 私の執務室で一緒に仕事をしていたエヴァンが、書類から顔を上げる。

「……あったのですか?」

 探るように尋ねるエヴァンに、私は笑みを返した。

 私は、改めてあの日のことを思い出す。
 あの日とは、いまや離宮に幽閉されているポーリーンとフランシスに、最後に対峙した時のことだ。
 これまで我慢してきたことをぶちまけていいと、テレンス殿下やグローリア殿下からお墨付きをもらった。

 私は結局、グランデ王国でポーリーンが身に纏っていたオマリー絹(シルク)のドレスが偽物であると言及するにとどまった。
 フランシスに対しては、ほぼ何も言わなかったと思う。というか、こちらはエヴァンの容赦ない攻撃で撃沈していたので、何もせずともスッキリしたので問題ない。

 確かに、ポーリーンに対しては、もっと言ってよかったかもしれない。
 言いたいことはたくさんあった。なにせ、彼女には散々いびられたのだから。
 一方的に敵視され、事あるごとにマウントを取られ、婚約者まで奪われて。
 しかし、私はそれらの件について、何一つ文句をぶつけなかった。
 グローリア殿下は、このことを心配していたのだ。

「あったことはあったの。というか、あの人に対しては言いたいことだらけだったわ」
「ですよね……」

 エヴァンが顔を顰める。
 エヴァンは私が彼女にされたことを全て把握しているので、そんな顔をするのも頷ける。
 私は立ち上がり、エヴァンの側に行った。そして、彼の眉間に指を当て、ゴシゴシとこする。

「!?」
「皺が寄っていたわ。綺麗な顔が台無しじゃない」
「あぁ……もう!」

 エヴァンは私の手を掴み、クイと引っ張った。

「きゃあっ!」

 私はバランスを崩し、エヴァンに倒れこむ。
 エヴァンは私を抱き寄せ、そのまま膝に乗せた。

「ちょ、ちょっと、エヴァン!」
「ニコラがそんな可愛いことをするからです」
「な、何をっ……」
「可愛いじゃないですか。皺が寄っているから眉間をこするなんて。……でも、あなたがすることは全部可愛い。まったく、困った人ですね」
「……っ」

 エヴァンの膝に横抱きにされた私が、いくら身じろぎしようとビクともしない。
 彼はしっかりと私を抱きしめ、私の頭に頬を寄せ悦に浸っていた。

 正式に婚約してから、エヴァンがこうして私に触れることがぐっと増えた。
 好き、可愛いなんて言葉はしょっちゅう口にするし、出来得る限り私の側から離れない。
 私たちは商会の仕事が忙しいので、デートなどはあまりできないけれど、こうして一緒の部屋で仕事をしたり、商談に出かけたりは頻繁である。
 でも商談の後は、人気のカフェでお茶をしたり、素敵な雑貨店で小物を買ったりと、息抜きはちゃんとしている。

 あら……? これが、もしかしてデートになっているんじゃ?

 フランシスが婚約者だった時とは全然違う。
 彼も、貴族学院に入るまでは優しくて、デートも少なからずしたけれど、その時とはまるで違うのだ。
 何が違うのか、ふと考える。

 フランシスは優しくて、いつもにこやかに微笑んでいて、他愛のない会話でも楽しくて……頭をよく撫でてくれたっけ。
 ……ん?

「どうしたんですか?」
「ううん、なんでもないわ。私、グローリア殿下に「言い残したことはありません」って答えたの」
「それは、本心ではないでしょう?」
「いいえ、本心よ」

 言いたいことは、多々あった。
 人の恋路を邪魔して。婚約を壊して。
 私だけじゃない、彼女の餌食となった女性はたくさんいた。
 そのことも含めて責め立ててやりたいと、ずっと思っていた。
 でも──

 さっき、気づいてしまった。
 フランシスと婚約していた頃と、今の違いを。

 フランシスはきっと、私を愛してはいなかった。
 ううん、きっと別の意味で愛してくれていたのだろう。
 それは、一人の女性としてではなく、昔から知っている年下の幼馴染、もしくは、妹としてだ。

 でも、エヴァンは違う。
 エヴァンはずっと、私を一人の女性として見てくれていた。そして、愛してくれた。
 そして、私も……。

 私だって、フランシスと同じだったのかもしれない。
 幼い頃から付き合いのある、よく知っている二つ年上の優しいお兄様。
 そんな彼が大好きだったからこそ、彼の望みを叶えてあげたいと強く願った。だから、商会のことがあっても、彼が騎士になることに反対はせず、むしろ応援したのだ。それが、オマリー伯爵家に婿入りする彼のためになるのかどうか、よく考えもせず。

 オマリー伯爵家とオマリー商会を大切に思い、これからもっと繁栄させていきたいと願う私を、陰でずっと支えてくれていたのはエヴァンだった。
 私はいつだってエヴァンを頼りにしていたし、側にいると安心できた。息をすることがとても楽で、誰といるよりもリラックスできた。嬉しい時も、悲しい時も、変わらずエヴァンが側にいた。

 私が真に一人の男性として愛しているのは、エヴァンだけなのだと思う。
 それに気づいたのだ。

 愛する男性からこれでもかと甘やかされ、惜しみない愛情を注がれる。
 私はもう、有り余るほどに満たされている。

「言いたいことは他にもあったけど、もういいかなって思ったの」
「……そうなのですか? それでいいのですか?」
「ええ、いいのよ」

 だって、私はこんなにも満たされている。
 自分が満たされていることにも気づかず、欲深く人の幸せまでも妬み奪うあの人に、もう言いたいことなんてない。
 あの頃の悲しみや悔しさなんて、全部どこかへ飛んで行ってしまった。
 だから、本当に言わなければいけないことだけを告げ、他は伝える気にならなかったのだ。
 もういいわ、今更よねって。

 そして、フランシスに対しては、私の代わりにエヴァンが言いたいことを言ってくれたから、あえて私が言うことなど何もなかった。

「言うべきことは全部言ったわ。だからいいの。私、すごくスッキリしたわ」
「……なら、よかったです」
「ええ」

 視線を合わせ、微笑み合う。

「エヴァン、そろそろ下ろしてもらえるかしら? 仕事の続きをしないと」
「お断りしたいのですが、仕方がないですね」

 名残惜しそうな顔をして、エヴァンが私を膝から下ろしてくれる。
 そして今度は自分が立ち上がり、もう一度私を引き寄せた。

「エヴァン……?」
「補給させてください」

 エヴァンはそう言って、私の頬に口づける。

「!」
「本当は、ここがよかったのですが」

 エヴァンの指が私の唇に触れ、柔く撫でる。
 頬に、ぶわりと熱が集まった。

「エ……エヴァンっ!」
「でも、そうすると止まれなくなりそうなので、今は我慢します」

 そう言って悪戯っぽく片目を瞑るエヴァンに、私は小さく口を尖らせる。
 これでは、どちらが年上かわからない。

 なんだかやられっぱなしだわ。それもちょっと悔しいわね。

 私はエヴァンを見上げ、背伸びをした。
 ちょっとした反撃だ。

「さっさと残りを終わらせましょう。でも、これだけの量だから……もう少しだけ、補給」

 私は、エヴァンと唇を合わせる。
 エヴァンは大きく目を見開き、よほど動揺したのか、カッと頬を染めた。

 あら、こんなエヴァンを見るのは久しぶりだわ!

「ニコラ!」
「ふふ、これ以上はお預けよ!」
「~~~っ!」

 してやったりと笑いながら、私は自分の机に避難する。
 顔を赤くしたまま不貞腐れるエヴァンに、私はひらひらと手を振った。

「ほら、頑張りましょう!」
「……わかりましたっ!」

 そう言って、エヴァンは猛然と書類を捌き始める。
 あの調子だと、あっという間に終わらせてしまいそうだ。

 負けていられないわ!

 何故か持前の負けず嫌いを発揮した私まで、処理スピードがぐんぐん上がる。これなら、山のように積み上げられた書類もすぐに捌ききれるだろう。
 そうしたら……

 また、さっきみたいなのもいいかも……。

 膝に抱っこされた状態を思い出し、私は赤くなった顔を隠すように、深く俯くのだった。


 了