未練なんてありませんが?

「叫んでもあいつは来ないよ。この部屋は、外に音が漏れないようになっている。ニコラの声は、誰にも届かない。叫ぶだけ無駄だ」
「いやああああ! どいて! どこかへ行って! あなたなんて嫌い! 大嫌い! エヴァンーー!」
「うるさいっ!」

 フランシスが腕を振り上げる。
 あぁ、殴られる! そう思ったその瞬間──

 バタンッ!

 乱暴に扉の開く音がした。
 咄嗟にそちらを向く。
 そして目に入ってきた光景に、私は途方もなく驚愕した。

「きゃあああ! あなたたち、何をしているの!? なんて破廉恥な! 早く離れなさい!」

 ポーリーン殿下が誰かを押しのけるようにして、強引に中に入ってきたのだ。
 そして、思い切り私を突き飛ばす。

「きゃあ!」

 私は床に転がり落ちる。
 毛足の長いふかふかの絨毯が敷かれていたからさほど痛みはないけれど、酷すぎる。

「やっぱりフランシスをまだ愛しているんじゃないの! あなた、婚約を破棄したんでしょう? 今更フランシスを篭絡しようとしたってだめよ! もう遅いんだからっ!」

 ポーリーン殿下が、とんでもなく的外れなことを喚く。

 あの場面のどこをどう見たらその解釈になるのよ! 意味がわからないからっ! それに、破棄じゃなくて解消だから! 細かいけど!
 でも、なんか助けられたみたいだからもういいっ!

 すぐさまここを出て行かねばと立ち上がりかけた時、ポーリーン殿下が私の肩を掴んだ。

「さっきはよくも私に恥をかかせてくれたわね!」

 ポーリーン殿下の手が上がる。

 ああ、今度こそ殴られるっ!

 私は、痛みに耐えようと歯を食いしばった。

 ……あれ?

 来ると思っていた痛みがこない。
 その代わり、ポーリーン殿下の悲鳴が聞こえた。

「きゃああっ!」

 目を開けると、彼女が床に倒れ込んでいる。

「え……?」
「姉上に手を出す者は許さない! それが例え、王族であっても」

 いつの間にか、私はエヴァンに支えられていた。
 見上げると、彼は冷ややかな視線で彼女を睨みつけている。

「フランシス! 私を助けなさい! こんな……こんなこと、許されないわっ!」

 悪魔かと思うようなもの凄い形相のポーリーン殿下でも、フランシスは条件反射で手を差し伸べる。
 彼女はその手を取って立ち上がると、途端に甘えたような顔になり、彼の胸にしなだれかかった。

「フランシス、大丈夫? あんなふしだら女に迫られて、気持ち悪かったでしょう? もう大丈夫よ。ニコラと私を突き飛ばしたあの男には、きつい罰を与えるから」
「いえ、あの……」
「いいの! 何も言わなくてもわかっているわ。私に任せておいて!」

 瞳を潤ませて、フランシスを見上げるポーリーン殿下。

 ……なんなのよ、もう! 本当に意味がわからない!

 先ほどまで、あんなに恐怖に慄いていた自分が馬鹿らしくなってくる。
 これはいったい、何の茶番なのだろうか。

「姉上……無事でよかった……」
「エヴァン……」

 エヴァンが私を強く抱きしめる。
 その温かさにホッとする。包み込まれるような安心感で、私の心は満たされていく。
 エヴァンの温もりを感じ、さっきまでの恐怖や怒りは、瞬く間に霧散していった。

「オークウッド卿、この件は正式に抗議させていただきます。姉上を傷つけたことは、絶対に許しません」

 エヴァンが、氷のような視線でフランシスをねめつける。

「許さないのはこっちよ! フランシス、大丈夫よ。私が何とかするわ。あなたは私の大切な護衛だもの」
「……ポーリーン殿下」
「そう、あなたは私のものなの。あんな女には渡さないわ。……フランシス」

 うっとりとした声で彼の名を呼ぶと、ポーリーン殿下は背伸びをして、フランシスの唇に口づけた。

 ええ? ええええ? えええええええーーーーーーーっ!?

 私は彼女の突飛な行動に、眩暈を覚えずにはいられなかった。