未練なんてありませんが?

 頭がぐらぐらする。まるで靄がかかったみたいにはっきりしない。
 それでも、このままじゃいけないと、心が警鐘を鳴らす。

 動け、動け、お願いだから私の身体、ちゃんと動いて!

 強く願うと、ふっとかき消したように靄が消えた。
 少しずつ頭がはっきりとしてくる。真っ暗だった目の前が、徐々に明るくなっていく。
 そして──私はゆっくりと目を開けた。

「え……」

 気づけば、私はソファに押し倒されていた。
 両腕を拘束され、見下ろされている。

「……っ!」

 本気で恐怖を感じた時は、声なんて出せないことを知った。
 心情的には大声で叫びたいのだが、掠れた息しか出ない。

「チッ。こんな短時間で目覚めるなんて、量を間違えたのか……」
「……フランシス!」

 そう、私に覆い被さっていたのはフランシスだった。
 声が出たことがきっかけとなり、身体が動くようになる。私はできる精一杯の力で、ここから逃れようとした。

「おっと、逃がさないよ」
「……っ、放してっ」
「嫌だ」
「どうして……どうしてこんなことをするの!?」

 優しかったのは、貴族学院に入る前まで。
 それ以降は、ずっと私を蔑ろにしてきたくせに。これでもかと軽んじてきたくせに。……まだ足りないというのか。

「俺はどうかしていたんだ。ポーリーン殿下に誑かされていた。やっと、それがわかったんだよ」

 はぁ? だから?

 それこそ今更だ。
 よく考えてほしい、思い直してほしいと、何度言ったことか。
 その度に、これは仕事だの、嫉妬は見苦しいだの、淑女にあらずだの、散々文句を言ったくせに!

「目が覚めたんだ。俺が本当に愛していたのは、ニコラ、君だけだよ」

 背筋が凍る。
 どこか正常ではない彼の瞳が恐ろしくてたまらない。

「わ、私はもう愛していないわ!」
「怒っているんだね。……これから君だけを愛することで、これまでのことを償っていくよ。だから、もう一度婚約しよう」

 この人はいったい何を言っているのだろう? めちゃくちゃだ。

 私たちは婚約を解消した。でも、実質はフランシス有責の婚約破棄だ。私には何の非もなかったのだから。
 解消の形をとったのは、私に瑕疵をつけないため。
 解消と破棄では、意味合いがまるで違う。
 それに、破棄となると、オークウッド子爵家はオマリー伯爵家に慰謝料を支払うことになる。うちほど裕福でないオークウッド子爵家にそれは負担となるし、これまでの付き合いに免じて解消で手打ちとした。
 それを懇々と説明され、最終的に納得したのではなかったのか。

 そもそも、あなたはポーリーン殿下に首ったけだったじゃないの!

 フランシスから逃れようと身を捩るけれど、力では到底敵わない。
 このままだと、いいようにされてしまう。
 それに、私の予想が正しければ……

「俺たちは一度婚約を解消している。だから、もう一度婚約するためには、そうしなくてはならない理由が必要だ」
「……っ」
「今から君を抱く」

 やっぱり!!!

「何を言っているの? 冗談はやめてちょうだい!」
「俺たちがもう一度結ばれるために必要なことなんだ」
「私は嫌なの! 絶対に嫌っ!」
「抵抗するな。優しくしたいんだ」

 だから! 人の話を聞けーーーーーーっ!!

 そうこうしているうちに、フランシスの顔が迫ってくる。
 もう恐怖しか感じない。片手だけで私の動きを封じてしまう彼に、震えるばかりの自分が情けない。
 唇が迫ってくる。その上、彼の左手は私のドレスをたくし上げ……

 嫌! 絶対に嫌!
 こんな人にどうこうされるくらいなら、死んだほうがマシ!
 こんな奴に汚されたら、もう生きていけない。

 頬に熱いものが流れる。
 泣くなんて癪だけれど、涙はあとからあとから零れてくる。止められない。

 あと少しで唇が触れる。
 ずっと抵抗しているけれど、どうにもできない。
 まがりなりにも騎士である彼の腕力に、私が太刀打ちできるわけがないのだ。

 ああ……こんなことなら──

 同じ部屋で寝泊まりすることになった、あの日のことが脳裏をよぎる。

『姉上、お静かに』

 私を抱き上げて、ベッドに連れていってくれた。

『姉上が眠るまで、こうしていますよ。安心しておやすみください』

 そう言って、私が眠るまでずっと頭を撫でてくれた。

 優しい声に、少し切なげな表情。
 ずっと私の側にいて、励ましてくれて、時には叱咤してくれる頼もしい存在。

 一緒にいると、楽しくて、胸が高鳴った。
 だめだと思いつつ、何かあれば頼りにしていた。
 私たちは義理だけれど姉弟だから、その関係を壊してはいけない。エヴァンがオマリー伯爵家にやって来た時からずっとそう思ってきた。
 でも、こんなことになって思い浮かぶのは、お父様でもお母様でも親しい友人たちでもない、エヴァンのことばかり。

「愛しているよ、ニコラ」

 やめて! 私は愛していない!

 私はカッと目を見開き、最後の抵抗を試みる。

「エヴァン、エヴァン、エヴァンーーーーー!!」

 ありったけの声を振り絞り、想い人の名前を叫んだのだった。