未練なんてありませんが?

 エヴァンとともにやって来た、グランデ王国のとある染色工房。
 実は、この工房はそれほど有名ではなかった。言ってみれば、数ある染色工房のうちの一つで、しかも零細。
 でも、この工房は仕事が丁寧で、仕上がりがとても素晴らしい。ただ、少々時間がかかる。これが弱みでもあり、零細工房からなかなか抜け出せなかった。
 そして、この工房のもう一つの特徴は、研究心が旺盛なところである。だから、これまで思いどおりの色に染まらなかったルアンスパイダーの糸の弱点を、見事に克服できたのだ。

 この工房を見つけたのは、エヴァンのお手柄だった。
 私も様々な染色工房を調べていたのだけれど、それは国内に留まっていた。でも、エヴァンはそれを隣国まで広げていたのだ。
 つくづく感じるけれど、エヴァンの視野は広い。それに、考えが柔軟だ。

 オマリー商会と契約した後、この染色工房の売上は、これまでとは比べ物にならないくらいに上がった。
 そこで、新しい人材を確保、教育を施し、職人を増やすことにも着手できるようになり、規模はどんどん大きくなりつつある。

 一人前の職人になるということは、並大抵のことではない。残念ながら、新しく入ってきた人たち皆がそうなれる訳じゃないのだ。
 修行の厳しさに耐えかねる者もいるし、自分には向かないと見切りをつける者もいる。そういった者たちは、工房を去っていくことになる。
 そしてもう一つ、困った理由が存在する。

『ある程度育った見習いを引き抜かれるのは、こちらとしては痛手なのです』

 先ほど、私たちが挨拶に出向いた染色工房のオーナーと職人頭が、揃ってそう言っていた。

「教育体制の整った工房など少数派でしょう。それに、人を育てるには時間も金銭もかかる。となると、育った人間を引き抜く……というのが、一番効率的なのでしょうね」
「でも、そんなの……」

 フェアじゃない。ずるい。いいとこどりではないか。
 育った人間を引き抜くにもお金はかかる。でも、時間と手間はかからない。
 素人を職人にするためには、それらがとんでもなくかかるというのに。

 だが、こういったことは、商会を営んでいる以上は常に耳にすることだ。珍しいことでもなんでもない。私だって商会の人間、ある程度は慣れている。
 それでも、苦労を横取りされたみたいで、悔しい気持ちは拭えない。
 理解していることと、割り切れること、それらは似ているようで、全く違う。

「それにしても……あの話は気になりますね」
「ええ、そうね。……なんだか、嫌な予感がするわ」
「実は、私もです」

 私とエヴァンは顔を見合わせ、情けなく眉を下げる。
 エイベラル王国の織物職人とグランデ王国の染色職人の数人が、ほぼ同時期に工房を去っていることについて、染色工房の職人頭からある情報を得たのだ。

『うちを去った染色見習いですが、かなり見込みがありました。鮮やかな色味であれば、職人とほぼ同等に染める腕は持っていたのです。ですが……彼らには、性格に少々難がありましてね』
『うちはあらゆる色……依頼主からの要望に応えられる腕を持って、初めて職人として認められるのですが、彼らは淡い色や色が少しずつ変化する染色についてはまだまだでした。なのに、早く職人にしろと言い、また仕事も選り好みしていたのです』
『そんな者たちでしたので、引き抜くのは簡単だったでしょう。金銭もそうですが、すぐに職人にしてやると言えば、あっという間に靡いたと思います』

 見習いと職人、それは雲泥の差である。
 すぐに職人にしてやるなんて言われたら、そちらに行ってしまうのも無理はない。
 それはともかく、彼らは「濃い鮮やかな色なら、職人並みに染められる」。これは大いに気にかかる。
 あと、更に気になる情報もあった。

「冒険者ギルドに、ルアンスパイダーの糸を大量に入手したいという依頼が出ていたのも、きな臭いです」

 そうなのだ。
 冒険者ギルドで、ルアンスパイダーの糸に関する依頼が頻繁に出ていたのだそうだ。
 魔獣の素材入手の依頼は冒険者ギルドにとってごく普通のことであり、これだけなら誰も気に留めないだろう。
 しかし、それが大量となると話は別だ。

「ルアンスパイダーの糸は、織って布にする以外にも用途はあるけど……」
「大量となれば、目的は一つです」

 ──その糸で布を織る。これ以外考えられない。

 ルアンスパイダーの糸を織って布にするのは、普通の織物職人には難しい。専門の知識と技術が必要になるからだ。
 それらを持つ人間は、何もエイベラルにしかいないわけではない。グランデ王国にも存在するだろう。
 でも、エイベラル王国の織物職人見習い三人が工房を去り、国内のどの工房にもいなかった。家を訪ねても、家人たちは口を噤んだとのこと。話せないのは、きっとやましいことがあるからだろう。

 これらのことから、その三人は他国に渡ったと考えられる。
 そして、染色工房でオーナーと職人頭の話を聞いた私たちは、確信したのだ。

「エイベラルを去った織物職人の見習いたちは、グランデに入国し、染色職人見習いたちと手を組んだ」

 私もエヴァンの意見に同意する。
 そして、彼らだけでそれを仕組んだとは思えない。裏で糸を引いている者がいるはずだ。

「姉上……夜会では、一波乱ありそうですね」

 エヴァンの瞳が凍てつくような冷気を放っている。
 私はゾクリと身を震わせ、小さく頷いた。

 お父様とお母様が到着次第、すぐにこの情報を共有し、相談しなくては。

 あの方の他に、どれほどの人間がこの件に関わっているのか。
 考えると、頭が痛くなってくる。
 私は、数日後に迫る夜会に思いを馳せ、重い重い溜息をついたのだった。