未練なんてありませんが?

 ナンシーの訳のわからない圧によって、私とエヴァンは同じ部屋に泊まることになってしまった。
 高級宿なので、部屋は大きい。身支度をする場所もあるし、ゆっくりと休める応接セットもある。そして、寝室スペースもゆったりとしている。
 しかし……

 ベッドは一つなんですけど!

 私は寝室部分からできるだけ目を逸らしつつ、三人掛けのソファに横になる。

「エヴァン、私はここで寝るわね。これだけの広さがあれば、十分……」
「姉上、それを私がよしとするとでも?」

 難しい顔をしたエヴァンに見下ろされ、私は頬を引き攣らせる。

 やっぱり……そうくるわよね。うん、知ってた。

 でも、エヴァンがここで寝るのには無理がある。たぶん、いや絶対に足がはみ出てしまう。
 旅は快適だったけれど、いつもとは違う環境だし、それなりに疲労がたまる。特にエヴァンは馬車に乗っていても護衛並みに周辺を警戒しているようだし、その疲れは私とは比べ物にならないだろう。だから、寝る時くらいゆっくりしてもらいたいのだ。

「ほら、毛布だってあるし、私ならこのソファにすっぽりはまるもの」
「だめです」
「だって、エヴァンにはゆっくり休んでほしいから!」
「それは、私も同じ気持ちです。明日にはグランデ王国に入ります。これから忙しくなるでしょうし、今夜はゆっくり休まなければ。父上と母上は夜会の当日にグランデ入りしますから、先行している私たちが染色工房に顔を出し、今後の仕事の調整などもする予定でしょう? 姉上が代表として顔を出すのですから、疲れた顔は見せられませんよ。ベッドは姉上がお使いください」

 ド正論。でも、それに屈するわけにはいかない。

「それはエヴァンだって同じでしょう? エヴァンは馬車に乗っている間も気を張っているのだし、私よりもずっとずっと疲れているはず! だから、エヴァンがベッドで寝るべきなの!」
「いいえ、姉上が」
「だめよ、エヴァン! 姉上命令です! あなたがベッドで寝なさい!」

 ついには強権発動。
 エヴァンはこう言われると弱い。最終的には私の言うことを聞いてくれるから、これで解決だわ!
 ……と思っていたのだけれど。

「きゃあ!」
「今回の命令は聞けませんね。我儘を言わないでください、姉上」
「エ、エヴァン!」

 なんと、エヴァンは毛布にくるまってソファを陣取っていた私をそのまま抱き上げると、寝室に向かってスタスタと歩き出す。

「ちょ、ちょっとエヴァン! 下ろして! 下ろしなさい!」
「姉上、お静かに」

 耳元で囁かれ、飛び上がりそうになる。
 ビクッと身体を震わせると、エヴァンが私を引き寄せるようにして体勢を整えた。
 寝室に着くと、そっと私をベッドに横たえる。そして、エヴァンは膝立ちになり、やんわりと私の髪を梳いた。

「私がオマリー伯爵家に来たばかりの頃、熱を出して寝込んでしまったことがありました。あの時、姉上がつきっきりで看病してくださいましたね。ベッド際から手を伸ばしても届かないものだから、上に乗って、何度も私の頭を撫でて「大丈夫よ、すぐに治るからね」って。……頭が痛くて、身体が熱くて、意識が朦朧としていたのですが、姉上に頭を撫でてもらって、とても安心したのです。……こんな風に、何度も、何度も」

 そんな昔話をしながら、エヴァンが優しく髪を梳く。

「エヴァン……」
「姉上が眠るまで、こうしていますよ。安心しておやすみください」
「……」

 吐息のような囁き声が、なんとも言えず心地いい。
 それに、頭を撫でられるなんて、いつぶりだろうか。

 ふわり。ふわり。

 エヴァンの大きな手が温かくて、優しくて、それでいて頼もしい。
 何度も撫でられているうちに、意識が遠くなっていく。

 あれ……? 私、結局エヴァンにいいようにされてしまっている……かも。

 でも、すごく気持ちいい。
 一旦目を閉じると、再び開けるのが億劫になってしまう。
 そうこうしているうちに、私は完全に意識を手放してしまったのだった。

 *

 エヴァンは、規則正しい呼吸音を聞きながら、義姉の寝顔を見つめ続ける。
 しっかり者の姉のこういった無防備な姿を見られるのは、そうそうあることではない。幼い頃は毎日のように見られたそれも、数年前からは滅多に見られなくなってしまった。
 それは、年を経る毎に減っていく。
 大人になるにつれ、側にいられる時間も削られていったから──。

 ニコラは貴族学院をすでに卒業しているが、エヴァンはまだ在学中である。これも、常に姉の側にいられない要因の一つ。だが、一番は婚約者の存在だった。

「今ここで、こんな風に姉上の寝顔を見ることができるなんて、あいつとの婚約が解消されなければありえないことだった」

 ニコラとフランシスの婚約が解消されてから、姉との時間が増えた。いや、あえて増やしたのだ。
 学院での時間は最小限に、エヴァンはできるだけニコラと過ごす時間を作った。少しでも多く、長く、一緒にいたいから。
 学院も、飛び級して一刻も早く卒業しようと思っている。そうすれば、更に側にいる時間を増やせるだろう。

「ここまで執着されると、鬱陶しいかもしれないな」

 フッと自嘲的に笑う。
 己が義姉に執着している自覚はある。婚約が解消されてからは、更にもっと。
 だが、それを抑えることなど、もうできそうにない。

「姉上……いえ、ニコラ……愛しています」

 小さく呟き、エヴァンは軽くニコラの額に触れる。

「よい夢を」

 そして、今度は頬に。

 風が優しく撫でるように口づける。
 エヴァンは、この上なく幸せそうで、見る者すべてを魅了する、そんな表情をしていた。