未練なんてありませんが?

 エヴァンは、自分の執務室で仕事をしていた。
 ニコラが専用の執務室を与えられているように、エヴァンにも与えられている。
 執務中の彼は、一心不乱に書類を捌いており、声をかけるのも躊躇われるほどだ。なので、執務中の彼に声をかけるのは、家族か執事と決まっていた。

 ノックの音がした。
 エヴァンは書類から目を離さずに、入室の許可を出す。
 やって来たのは、執事だった。

「エヴァン様、各工房から報告書が届いております」
「わかった。すぐに目を通す」

 エヴァンが書類を受け取ると、執事は一礼してすぐに部屋を出て行った。が、すぐにもう一度部屋に入り、お茶の準備を始める。

「そろそろ休憩なさいませ」
「……そうだな。休憩しながら報告書に目を通すよ」
「それは休憩とは申しませんが」
「隣国の夜会まで時間がないんだ。献上するオマリー絹(シルク)の件もあるし、相変わらず注文は殺到するしで……まぁ、ありがたいんだけどね」
「ニコラお嬢様も、毎日遅くまでお仕事をされております」
「姉上は働きすぎだよね」
「エヴァン様も負けておりませんよ。それでは、失礼させていただきますね。後ほど片付けに参ります」
「ありがとう」

 執事が出て行った後、お茶を一口。そして、改めて報告書に目を通した。

「ん……?」

 エヴァンの眉が下がる。

「織物工房と、染色工房、どちらの工房からも、見習いが数人退職したのか」

 退職自体は、さほど珍しいことではない。
 職人になる前にまず見習いから始めるのだが、工房での見習い期間はとても厳しいと言われている。オマリー絹(シルク)を扱う両工房は、特に厳しいことで有名だった。

 とはいえ、見習いにも給金を支払っている。教える職人たちも、虐めのような指導をしないよう言い含めてあるし、時折抜き打ちで視察もしている。
 隣国の染色工房までは目が届かないが、工房主には直接会ってその人となりは把握しているし、そのようなことがないと信じている。
 織物工房にしても、工房主や職人頭の人選には散々頭を悩ませ、結果、父にお墨付きをもらっている。もちろん、紡績工房の方もだ。

「紡績工房の方は、しばらく退職者が出ていないのにな」

 退職者が出る場合、大抵は見習いである。職人になれば給金は更に上がるし、自分の成果物が市場に流れるのだ。やりがいもある。
 しかし、見習い中は修行期間でもあるので、その厳しさにくじける者や、脱落する者はどうしても出てくる。数人が一度に辞めるというのも、別に珍しくはない。

 紡績工房はなし。だが、織物工房と染色工房には数人の見習いが辞めた。
 これだけなら、そのまま流しただろう。
 しかし、エヴァンは気になった。

「辞めた時期が重なる、というのがな……」

 きっと偶然だろう。それに、職人が辞めたわけではないし、こちらはさほど痛手ではない。
 しかし……

「一応……顔を出しに行くか」

 工房主や職人頭から、辞めた見習いたちについて話を聞いておきたいと思った。
 ──なんとなく、である。
 だが、エヴァンはこういう直感を大事にしていた。

「そういえば、姉上のドレスの仮縫いが終わったと連絡があったな。調整をしたいとのことだし、こちらから出向くことにしよう。退職の件は、姉上にも報告する必要があるし、話は一緒に聞いた方がいい。そのついでに、仕立て屋に顔を出せばいいな。そのまたついでに、市場調査も兼ねて王都の町を散策する……よし、そうしよう!」

 エヴァンの頬が緩む。
 仕事にかこつけて、ニコラと王都デートしようという腹積もりなのである。

「ドレスに似合う宝石を一緒に選ぶのもいいな。若者の傾向を知るために、流行りのカフェでお茶は絶対、でも紳士淑女の傾向も把握しておく必要がある。夕食は、あの有名レストランで食事だな。ディナー用のドレスは、オマリー商会関連の店が近くにあるから、そこで着替えればいい!」

 当日の予定をあれこれ考えると、心が弾む。

 エヴァンは、オマリー伯爵家の養子としてこの家に来てからずっと、ニコラを慕っている。
 来たばかりの頃はまだ幼く、純粋に姉として懐いていた。しかし、その気持ちは、年月を重ねる毎に少しずつ変化していく。
 はっきりと自覚したのは、フランシス=オークウッドを婚約者として紹介された時だ。

 ニコラに婚約者がいることは知っていた。
 しかし、実際に会ったことで、この事実が実態を持ったというか、現実のものとして受け入れざるを得なくなったというか、そんな衝撃を受けたのだ。頭をガツンと殴られたようだった。

 この想いは、一生隠し通さなくてはならない。
 どんなに辛くても、苦しくても。

 それでも、二人が仲睦まじければよかった。
 ニコラの幸せそうな笑顔を見ると、エヴァンも幸せになれたから。
 だが、ニコラの表情から笑顔がなくなり、瞳の輝きも失われていき、溜息の数がとめどなく増えていき……。

 エヴァンは怒り狂った。
 大切な義姉を蔑ろにされ、傷つけられ、その怒りは殺意さえ含まれるほど。
 実際に手を下すのもやぶさかではないが、それなりにリスクもある。ならば、社会的制裁を与えてやろうぐらいには思っていた。

 しかし、その前にニコラが彼に愛想を尽かした。もうとうに限界を超えていたのだろう。
 無事に婚約が解消され、エヴァンのフランシスに対する怒りも、多少は軽減された。軽減されたとはいえ、まだ心の奥底でドス黒く燻っているが。
 それでも、ニコラを手放してくれたことには感謝である。

 フランシスと婚約解消したニコラには、連日釣書が届いている。
 だが、それらはすべてオマリー伯爵の元で止められていた。──エヴァンが両親に頼み込んだのである。

「もう誰に遠慮する必要もない。……姉上は、誰にも渡さない」

 ようやく、この想いを解放できる。
 でも、この気持ちを伝えるには、ニコラに振り向いてもらう必要がある。そのための努力を惜しむつもりは毛頭なかった。

「姉上、覚悟していてくださいね」

 エヴァンは、軽く口角を上げた。