ラッセルの丘で

  幸い天気が良く、5月の陽ざしが心地よかった。目に付いた古い木のベンチに座って、傍らに紅茶のカップを置く。一瞬、ぼんやりしかけて、いやいや、だめでしょ、と思い直す。
 バッグからテキストを取り出して開きながら、後半の授業、さらに午後の授業のことを考えて緊張していると、ふと、人の気配がした。見れば、少し離れたところ、校舎の入り口付近に誰か立っていて明らかに私を見ていた。
 ほどよい長さの黒髪をおしゃれに真ん中で分けた、東洋系の男の子だった。歳はたぶん私と同じくらい。大学生かもしれない。
 背はけっこう高い。シンプルな白いシャツにジーンズ姿がなかなかサマになっている。細すぎず、マッチョ過ぎず、ちょうどいい感じの体格だ。それに、顔もまあ悪くないな、なんて瞬時に値踏みしている自分に呆れてしまった。まずは英語でしょ、学校初日なんだから、と。
 ほどなくその男の子はこちらへやって来た。近くで見ると、やはりなかなか整った顔をしている。目元が涼し気で、鼻もちゃんと高い。
 中国人か台湾人か韓国人か、もしかしたら日本人かもしれないけど、間違えると失礼と思ってひとまず英語で話しかけてみた。
 すると、なぜか思ったよりも落ち着いた――というか、捉え方によってはぶっきらぼうとも思える調子で彼はこう言った。
(しょう)。本山憧。日本人だよ」と。
 別にそんなことどうでもいいんだけど、という投げやりささえ感じさせる態度で、私は少し面食らった。
 その割に「隣、いい?」なんて言ってくる。まあカッコいいな、なんて思っていた私は、言われるまま荷物をよけてスペースを作った。
 ぴったりすぐ隣に腰かけられて、またしても面食らった。距離、近くない? 日本人のくせにパーソナルスペース、狭いな、この男。見た目がいいから別に不快ではないものの、正直、落ち着かない。とはいえ、表面上は涼しい顔を装っておく。
 心理的にも距離感がバグっているのか、初対面の私を「ちゃん付け」で呼ぶのがなぜかしっくりこない様子だったから、呼び捨てでいいよ、と言ったら、あからさまにほっとしていた。やはり、こういう馴れ馴れしさも、見た目がいいから許せてしまった。つくづく私も現金だ。
 Advancedに入った日本人がいる、ということで私に興味を持ったらしい。彼は二つ下のUpper intermediateにいるようだ。昨日一緒に試験を受けた綾乃ちゃんと浩美ちゃんがいるクラスなのだという。
 話すうち、私よりも二つ年下で、大阪の大学に通っていて、実は実家が北海道だということがわかった。地元ネタで少し会話が弾んだところで、初Tea breakは終わりになった。
 この時点では、まだ彼――憧くんに対して、特に何か感じていたわけではなかった。うっすら予感のようなものはあったかもしれないけれど、はっきり一目惚れしたわけではない。
 実は、私には日本に残してきた恋人がいた。おそらく律儀に待っているだろうその人から、まさに逃げるようにして日本を離れた。
 ロンドンに着いて、まだほんの数日だというのに、何もかもが遠く感じられる。8時間の時差の向こう側にいる恋人でさえ、今の自分とは関わりのない存在になりつつある。
 罪悪感よりも、ひどく自由になれた喜びで私はいっぱいなのだった。