ラッセルの丘で

 5月第2週、火曜日の朝のことだった。オレを見るなり、やけに興奮した様子で誠二が近づいてきた。
(しょう)、なあ、聞いたか? 昨日新しく来た日本人の女の子のこと」
 やれやれ、またか、と思う。惚れっぽい誠二は、常に女の子の話をしている。
 1か月ほど前、同じ日にこの語学学校に入学して同じクラスになって以来、まあ親しくしているし、悪い奴じゃないのはちゃんとわかっている。とはいえ、飽きもせず凝りもせず、かわいいコを見つけるたびにすぐ好きになって大喜びしたりあれこれ悩んだりと忙しいことこの上ない。4つも年上だとは思えないほどロマンチストというか、乙女のように『超恋愛体質』なのがこの石黒誠二という男なのだった。
 鞄からテキストや辞書を取り出しながら、とりあえず当たり障りのない返事をしておいた。
「あー、確か、3人来たって?」
「そうそう。うちのクラスに2人入るって、Jenniferが言ってた」
「ふーん。これ以上日本人、増えないでほしいな」
 ロンドンの語学学校の中でも、日本人が少ないという触れ込みだったわりに、思ったよりも日本人がいて実はちょっとうんざりしかけていた。
「でさ、もう一人はさ、Advancedに入ったらしい」
 誠二の言葉にちょっとびっくりしてしまう。
 Advancedは最上位クラスで、今のところ日本人は一人もいない。ケンブリッジ英検のAdvancedおよびProficiencyを受ける生徒向けの上級クラスなのだった。
「すごいな……」
 思わずつぶやくと、興奮した様子でさらにこう続く。
「しかも、さ。すっごくかわいかった」
「見たの?」
「さっき教室まで見に行ってみた。こう……女の子、って感じの。めちゃくちゃかわいいワンピース着ててさ。珍しいだろ?」
 誠二は女の子らしいコが大好きだ。とはいえ、彼の「かわいい」はどうも当てにならないのは、これまでの経験で嫌というほど思い知った。だから、今回もどうせ大したことはないだろう、とさほど気にも留めていなかった。
 1時間目が終わってTea breakの時間になって、今日うちのクラスに入って来た例の2人の日本人女子――森田浩美(ひろみ)と松本綾乃(あやの)が所在なさげにしているから、声をかけてみた。
「キッチンに行ってみたら? 50 Pで紅茶一杯もらえるんだ。たまにジンジャークッキーとかもついてくる」
「ありがとう」
 財布を持って教室を出ようとしている2人に、ついでに尋ねてみた。
「昨日、3人新しい生徒が来たって聞いたんだけど。もう1人はどんな人?」
「あ、優依ちゃんだ。すごいよね、Advanced入ったんだって」
 浩美が人の好さげな笑みを浮かべてのんびり言った。なんだかコアラのような愛嬌がある子だ。
「テストの時も、ペラペラしゃべっててびっくりした。大学の英文学科だって言ってたけど……なんか圧倒されちゃったよ」
 片や綾乃も、頷きながらそんなことを言う。タイプは違うけれど、こっちも善良そうな雰囲気だ。タレ目で、どちらかというとパンダっぽい感じか。
「しかも、すごくかわいいんだもん」
「へー」
 あながち、誠二の言も嘘でもないってことか。とはいえ、女子同士の『かわいい』というのも、大して当てにはならないものだ。
 とはいえ、ちょっと興味を引かれたオレは、二人をキッチンに案内して紅茶を買ってから、廊下やフリースペース、玄関など生徒がおしゃべりに興じている場所をあちこち覗いて、見慣れない女の子がいないか探して回った。
 建物内には見当たらなかったから、中庭へ回ってみると、ベンチにぽつんとひとり座っている明らかに東洋人の女の子がいた。見たことがないから、これがそうなんだろう。
 甚だ偉そうで恐縮だが、自他ともに認める面食いのオレでも感心してしまうほど、なかなかかわいいコだった。小柄で、華奢。緩いウェーブのかかったセミロングよく似合っている。目がぱっちり大きくやや童顔ではあるが、どことなく知的な雰囲気もある。唇の形がすごく綺麗で、しかも鮮やかなローズ系の口紅をつけている。
 誠二の言っていたとおり、赤と白の細かいチェック柄のAラインワンピースを着て、ワンピースとセットらしい薄いピンクの丈の長いカーディガンを羽織っている。肌色のストッキングに、バレエシューズのような赤いぺたんこ靴。ジーンズ姿の女子が多い中で、確かにこれはパッと目を引く。
 というか、かなり好みだな、とすぐに思った。誠二には悪いけど。
 無遠慮に凝視しているのに気付かれたらしく、こっちに視線が向けられた。
「Hi! I'm Yui, a new student from Japan this week. Nice to meet you, eh……」
 ただの挨拶とはいえ、ちゃんと綺麗な発音だった。
(しょう)。本山憧。オレ、日本人だよ」
「あ……私は市川優依。よろしくね、憧くん……でいいのかな」
「うん。よろしく。隣、いい?」
「あ……うん」
 見た目が好みなのもあって、もう少し話してみたい気分だった。バッグをよけてスペースを空けてくれたから、すぐ隣に腰かけた。見れば、なんとなく困ったような顔しているから、一応尋ねてみる。
「もしかして、日本語、喋りたくないひと?」
「え……んーん、別に。その場に日本人以外がいるなら失礼だと思うけど、日本人だけなのに英語使うのって、なんだかわざとらしいし」
「まあ、確かにそうだよな」
 へえ、意外と率直なコだ、とちょっと感心した。
 絶対に意地でも自国語を話さない、と頑なな奴がたまにいる。まあ別に個人の考え方もあるから、とやかく言う筋合いじゃないけれど、このコの言う通り、わざとらしいというのが至極まともな感覚だ。
「そういえば、Advanced入ったんだって? すごいね。あそこ、日本人、いないでしょ?」
「うん。レベル高くて大変だった。1時間目で、すでにもうめげそう。なんで入れたんだろ……」
 ちっともめげた風ではないけれど、膝の上のテキストにものすごい量の書き込みがしてあるのが見えて、確かに苦労はしてるんだろう、と推察した。
「憧くんはどこのクラス?」
「Upper-intermediate。優依……ちゃんの二つ下」
「そっか。っていうか、言いにくいなら、呼び捨てでいいよ。憧くん、いくつ?」
「先月誕生日でさ、20になったとこ。1年だけ大学通って、つまんなくなったから、こっち来た」
「年も私の二つ下か。今年で22なの、私」
「へー」
「3年まで通って、大学を休学してこっち来たの」
 なんとなく落ち着いて見えるのは、年上だからか、と納得した。ちょっと気の強そうなところなんかも含めて、わりと、というかかなり興味を持ち始めている自分に呆れながらも、せっかくだから至近距離から観察しておく。
 髪は艶やかでまったく傷んでないし、肌も綺麗だな、とか、たぶん香水だろう、青りんごみたいなさっぱりしたいい匂いがするな、とか。薄化粧でなかなかいいな、とか。
 話し方にどこか懐かしさのようなものを感じていたら、同郷だとわかった。北海道は目立ったなまりはあまりないぶん、イントネーションに独特のくせがある。そういうのをお互い認識して『やっぱりね』となんとなく微笑み合いながら、話は弾んだ。
 紅茶片手にそんな風にしばらく雑談を楽しんでいると、ほどなく誠二がやってきて、会話に混ざってきた。なんで呼んでくれないんだよ、と言わんばかりの不満げな目を一瞬オレに向け、そのあとはあからさまに一生懸命アピールしながら優依の気を引こうと必死になっている。
 そんな明らかに挙動不審な誠二に対し、優依はといえば、絶えず可愛らしい笑みを浮かべ、実に感じよく対応していた。初対面の相手に、こうも余裕に接することができるとは、なかなかあっぱれだ。コミュニケーション能力に長けているというだけじゃなしに、これはまあ、単にモテ慣れてる証拠だ。
 優依の通う大学は、地方の女子大とはいえ、道内ではわりと有名なお嬢様大学だった。おそらく、他学の男子学生としょっちゅう合コンでもしてさぞや楽しい学生生活を送っているであろう、いわゆる勝ち組オーラが漂いまくっている。
 いい奴には違いないが、どちらかというと素朴で地味めな誠二には、どう考えても高嶺の花だ。というか、もしかしたら優依は日本に彼氏でもいたりするのかもしれない。