「今日ね、友達の敦美と婚活の話になったの」


何の意図もない、ただの世間話のつもりだった。


九条は静かにビールの缶をテーブルに置き


「で?」と目だけを上げてきた。どこか吸い込まれそうな漆黒の瞳の奥で不穏な光を一つ見た気がする。


その意図が組み切れず私は続けた。


「んー、何かねマッチングアプリとかしててもあんま成果がないみたいで、友達紹介してーとか言われて」





「仁科、お前は?」




ふと聞かれて私はそのとき初めて九条の顔をまともに真正面から見ることになった。


「私…?」


「お前でも結婚したいとか思うの?」


「私?あー……今んとこは()……」と言いかけたとき、九条が近づいてくる気配があった。爽やかで華やかな―――九条が愛用している香水。こいつの車に乗るときや、たまに近づけた距離に香るメンズものの香水。某ブランドの芸能人の誰々がつけててーとか言うお高い香水。


―――無い


と言い切る前に、


唇をふさがれた。






何―――





が起こったのか分からなかった。


出逢って15年。


キスをしたのは初めてだ。


勿論、この年齢でキスは初めてではない。相手は九条ではないけれど。その先も経験済みだ。


「ちょっ……!」言いかけた言葉はまたも九条の唇によって吸い取られる。


熱い―――口づけだった。


「ん゛ー!」と言葉にならない言葉をキスの合間で必死に発して何とか九条の体を押しのけようとしたが逆に私の腕を捉えてやがて九条の重みを感じながら


ドサリ…


と音がして視界が回転した。


ん!?


天井が見える……


って、ヤバイヤバイ!これって九条に押し倒されたってことじゃん!


これはマズイ!


酔っ払ってるのか?いやいや、こいつがザルなこと私は知っている。九条がここに来て飲んだのは350mlの缶ビール3本程。これだけでは流石に酔わない筈だ。ってことは―――


九条の顔が再び近づいてきて、キスされる寸前私はこいつの唇を手で塞いだ。


「私をからかってそんなに楽しい?年中発情期なあんたには分からないかもだけど、私はそうじゃない。私なんかにサカってないで、他の子に行って」


至極真剣に……むしろ怒りを含めて言うと、九条は見たことがないぐらい切なそうに瞳を揺らして私の手をやんわりとはがした。それはさっき婚活話が出た時の光を讃えていた気がするけれど少し種類が違う。





「んなんじゃねーよ」




一言呟いた言葉は点けっぱなしになっていたテレビのお笑いバトルの観客の笑い声で聞こえないぐらい小さかったけれど、


私の耳にはちゃんと届いた。