いえない事情〜初恋のエリート上司がわたしに執着する理由〜

 
 自己紹介を終えた彼から無理やり視線を引き剥がす。だけど、彼の姿が目に焼きついて消えてくれない。

 立夏先輩しか知らなかった私が、彼に無邪気に恋焦がれていた日々の記憶。

 それが、濃いめに淹れたブラックコーヒーのような苦味とともに、痛んだ胸の隙間から滲み出そうになる。


「ではさっそくですが、来季のSSコレクションの展示会に向けてのラインアップ会議を行いたいと思います。各部門のチーフは、五分後にミーティングルームへお願いします」


 そう言い置いた新BMが退出すると、再びオフィスには活気が戻ってきた。

 キーボードを叩く音、電話の鳴る音、彼の経歴や外見に対して上がる、黄色い声。だけど、いまだ私の耳にだけ、音が戻ってこない。


「光芽さん!新BM、想像のはるか上をいくかっこよさだったんですけど……!おまけに声までいいなんて、もう目も耳も幸せです〜!」

「……そ、そう?それはよかったね……」


 視覚と聴覚から幸せを摂取したらしい茅野ちゃんの弾んだ声で、私の世界にもようやく音が戻ってきた。彼女が私の異変には気づいていないようでホッとする。

 なおも弾み続ける茅野ちゃんの声を聞きながら、私はとある人物を探してオフィスに視線を走らせた。目的の人物も、私の方を見ていたのだろう。視線が交わった瞬間、とてもバツの悪そうな顔をされて悟る。やっぱり、侑士くんは知っていたんだ。今日来る新BMが、立夏先輩であることを。

 なんでそんな重要なこと、教えてくれなかったの……。デザイナーの情報網だかなんだか知らないけれど、さっき聞いていれば、私だってまだ心の準備もできたかもしれないのに。そんな不満を燻らせながら、私は彼からわざとらしく視線を逸らす。怒ってますよ、のアピールだ。

 だけど、切り替えなくちゃ。

 立夏先輩と目が合った一瞬、私は身構えた。この再会に、彼は一体どんな反応をするのだろう、と。だけど、彼の様子は何も変わらなかった。

 きっと彼の中では私とのことなんて、なんの感情も伴わない、とうに過ぎた過去のことなんだ。

 それなら私だけが意識していても仕方がない。これからは上司と部下としてやっていかなければならないのだ。それならもう、余計な感情や感傷は持ち込むまい。

 そう固く決意して、私はタブレットやブランド資料など必要と思われるものをいくつか胸に抱える。「じゃあ、いってくるね」と茅野ちゃんに告げてから、まるで戦に臨む戦国武将のような気持ちでミーティングルームに向かうのだった。