いえない事情〜初恋のエリート上司がわたしに執着する理由〜


 今朝のオフィスは、これからやってくるだろう人物に対する期待と不安が飛び交っていて、いつもよりも騒ついていた。 

 その対象である彼がやってきたのは、茅野ちゃんと挨拶のあと二言三言交わしてから、私がなるべくいつも通りを心がけてメールの返信をしていた時だった。

 
「みんな、ちょっといいか」と、統括マネージャーと共にオフィスへ入ってきた男の姿を認めた瞬間、私のキーボードを叩く指先がぴたりと止まった。周囲の雑音が、まるでフロアに吸い込まれたかのようにすぅっと消えていく。

 そんな私をよそに、統括マネージャーよりも一歩前に出た彼は、穏やかで落ち着いた笑顔と堂々とした姿勢で、ゆったりとオフィス全体を見渡した。

 目が合った気がした瞬間、彼の視線が止まり、私の呼吸も止まる。でも、それは錯覚に過ぎなかったようだ。なぜなら彼の視線は、まったく色を変えることなく、すぐに私の上を流れていったのだから。


「本日付でフェル社からこちらのブランドのリブランディングのために参りました、向井立夏(むかいりつか)と申します。こんな若輩者のBMですが、精一杯尽力したいと思いますので、よろしくお願いします」


 謙虚な物言いをしながらも、彼の中に滲む自信はきっとこの場の誰にも伝わっただろう。彼がイギリスや他の国で手がけてきた案件を統括マネージャーが簡単に紹介していったことで、たった今、それは確固たるものになった。


 ── 目の前にいる彼は、最後に見た十年前の面影を残しながらも、重ねた年月と積んできた経験に裏打ちされた自信がプラスされて、あの頃よりも凛々しくなっていて。でも、温かくて柔らかだった声は全然変わっていなくて。

 だから、ああ、目の前にいる彼は本当にあの立夏先輩なんだと、とても現実とは思えない出来事を前に、私は認めざるを得なかった。


 蓋をしていた過去の記憶が痛みを伴って溢れ出しそうになり、私は無意識にスカートの裾をギュッとキツく握りしめる。

 今は思い出してはいけない。かつてあの声が、視線が、どんな温度を伴って私に向かっていたのかなんて。絶対に、思い出してはいけない。