執事は二度騙す

 潮の香りと規則正しく砂浜を打つ波音が、遠く獅鷲城のテラスまで届いていた。

 再会したレオンハルトと交わした短い会話は、互いの立場が変わった今でも、どこか奇妙な信頼関係の名残をとどめていた。

「ちょうど体力をつけたいし、経験も増やしたいの」

 エリーゼがそう切り出したとき、レオンハルトは当然のように答えた。

「体力をつけるならサーフィンは最適です。バランス感覚もつく」

 二人は今、プライベートビーチに立っていた。
 レオンハルトは休暇を利用し愛犬を連れて、海に面したこの城へやってきていた。

「ワン!」

 砂浜の上で黄色い犬が、潮風を嗅ぎながら砂を蹴っている。

 ウェットスーツに身を包んだエリーゼは、自分の身長ほどもあるサーフボードを抱え直した。
 広がる海岸線には、見事な白波が次々と寄せては返している。

「エリーゼ嬢。ボードはどうですか」

 レオンハルトは手際よく自分のボードを脇にはさみ、サラサラとした黒髪を潮風になびかせながらエリーゼのほうへと歩いてきた。

「重いけれど……胸が高鳴るわ」

 波打ち際に立つエリーゼの瞳は、城の執務に追われていたときとは違う、知的な好奇心と挑戦の光に満ちていた。
 レオンハルトは海原をいちべつし、満足げに濡れた髪をかきあげた。

「あなたの城のこの波は素晴らしい。これに乗らないなど宝を捨てるのに等しい所業だった」

「ふふ。知らなかったわ」

 エリーゼが楽しげに笑うと、レオンハルトは波を指し示しながら、的確に指導を始めた。

「まずはパドリングの姿勢を。波のうねりを見極め、素早く体を引き上げる。恐怖心を捨てれば、波は味方をする」

 軍の戦術を説くかのようなその真剣な語り口に、エリーゼは思わずくすりと笑う。

「わかったわ。少佐閣下、教官としての腕前も見せてもらうわね」

 いざ最初の一歩を踏み出そうとして、エリーゼは立ち止まった。

 ――少しだけ怖い。

 わずかに体に力を入れ、彼女は水の中に踏み出した。

 冷たい風と冷たい海水が足元を洗う中、二人はボードを抱えて波打ち際を歩いていく。
 波の勢いに押し返され海水を頭からかぶった。
 持ち前の観察眼で、エリーゼはみるみるうちにコツをつかんでいった。
 何度もボードから放り出され、髪をびしょ濡れにしながらも、彼女の表情は輝いていた。

「しょっぱいわ!」

 自然の圧倒的な大きさに対する恐怖以上に、「自分の身体ひとつで挑む」感覚がどこまでも新鮮で、エリーゼの血潮は熱くなっていた。

 そして、何度もの挑戦の末。

 絶妙なタイミングで波のうねりをつかみ、エリーゼは一気にボードの上に立ち上がった。

「――っ!」

 白く泡立つ波の斜面を、風を切るように滑走していく。
 海の青と空の広さが、全身を包み込む。自分の足で、自分のバランスだけで、大自然のエネルギーと一体になる感覚。

「すごいわ……!」

 岸のほうから、レオンハルトが大きく腕を振って合図を送っているのが見えた。

 波を乗り終えて浅瀬に足をついたエリーゼは、息をはずませながら、濡れた髪をかき上げて振り返った。無邪気で美しい笑みが浮かんでいる。

 エリーゼが岸にあがると、レオンハルトが近づいてきた。
 その黒い肌には引き締まった精悍さが宿り、軍服を脱いだラフな姿は、参謀というよりも海の男だった。

「さすがです。初めてで立つとは」

「あなたの教え方が良かったからよ。……レオンハルト……少佐?」

 人間相手の駆け引きと違って、波には言葉が通じない。それゆえか、エリーゼは海に解放感を覚えていた。
 濡れて髪が乱れても、構わない自分に少し驚く。
 エリーゼは海風に吹かれながらたずねた。

「いつもこんな休暇を過ごしているの?」

 レオンハルトは遠い空に視線をやった。その横顔には、日々の殺伐とした政争や軍務からは程遠い、静かな安らぎがただよっている。

「誰かと来るのは初めてです」

 飾り気のない、けれどまっすぐな答えだった。
 エリーゼがまばたきをすると、レオンハルトは柔らかく目を細め、波音にまぎれないおだやかな声で言った。

「いい時間だ」

 エリーゼは思わず、ただ、彼の横顔を見つめる。
 レオンハルトは水平線を見つめて潮風に吹かれている。心地よさそうな表情だった。

「……」

 彼女はひとしきり思いをめぐらせたあと、話題を変えた。

「もうすぐ旧王政復古派のガラ・パーティーね……。休暇を終えたら、少佐も準備で忙しくなるでしょう?」

「ええ、表向きは社交ですが、思惑が交錯する場になるでしょうね」

 レオンハルトは淡々と返す。

「エリーゼ嬢、あの怪盗はどうしているのですか」

 その質問に、エリーゼはしばらく黙った。水平線の向こうをじっと見て、考えているようだった。

「……わからないの」

 怪盗3Xが口にしていたニューヨークの大規模な美術展も、もうすぐ終わる。だというのに、ニュース記事に怪盗3Xの名前が載ることはなかった。

「……」

「あんな人、忘れた……と、言えたらいいのだけど」

 再びボードの先端を沖へと向けようとしたとき、足元でパタパタと砂を蹴る気配がした。見れば、レオンハルトの愛犬が、トコトコとエリーゼの足元に寄ってきてしっぽを振っている。

「あら」

 エリーゼは思わずしゃがみこみ、犬の柔らかい頭や背中を優しくなでる。
 犬は気持ちよさそうに身を寄せた。自然と笑みが浮かぶ。

「人懐っこい犬です」

 落ち着いた声が頭上から降ってきた。顔を上げたエリーゼは、いつの間にかすぐそこまで歩み寄っていたレオンハルトに、はっとする。
 二人の距離は思いのほか近く、彼の胸元がすぐ目の前にあった。
 ふわりと漂う潮風とレオンハルトの香りに、エリーゼはわずかに息をのむ。レオンハルトもまた、見下ろす形で足を止めていた。

「……か、わいい犬ね」

「……もう一度、行きましょうか」

 レオンハルトは何事もなかったかのように視線を外し、しかしわずかに耳を赤らめた。
 その背中を追うように、エリーゼもまた、輝く波に向かって歩き出す。

 獅鷲城の古い石壁が見守る海原で、白いしぶきと笑い声が、どこまでも高く響き渡っていった。