執事は二度騙す

 海を越える船の甲板で、ディオンは欄干にもたれていた。風が暗いブラウンの髪を乱す。

 食堂に行けば、たいしてうまくもないスープに向かって、あの宿で一緒に飲んだぬるいスープのほうがずっとよかったと思う。
 甲板を歩けば、誰かのショールが風にひるがえるたびに振り向く。
 船室の狭い寝台にあおむけになっても眠れない。天井を見つめながら、考える。

「今さら、何て言おう?」

 かっこうよく去った男が、結局また来ましたなんて、あまりにも締まらない。

 港ごとに降りて、車を拾い、最短の道を選びつづけている自分は、もはや怪盗というより、狂った追跡者だった。

 最低だ。
 だが、止まれない。

 ようやくたどり着いた港は霧に包まれていた。
 埠頭。濡れた縄。魚と塩の匂い。
 ディオンは船を降りるなり、待たせていた車に飛び乗った。

「北へ」

 運転手が目を丸くする。

「ずいぶん急ぎですね」

「急ぎなんだよ」

 窓の外を流れていく景色は、港町から丘陵地帯へ、丘陵地帯から深い森へと変わっていく。

 エリーゼはもうそこにいるだろうか。
 獅鷲の城。
 遠い山と海に抱かれた古い城。
 そんなところにひとりで着いて、ちゃんと眠れているだろうか。
 知らない人間に囲まれて、また気丈に笑ってはいないか。
 朝食は食べているか。

 考えることがいちいち細かくて、自分に呆れる。

「……だめだな」

 何がだめって、全部だ。
 盗む、逃げる、笑う、それで十分だった。
 なのに今は、彼女のとなりに自分がいないことが耐えがたい。

 車は森を抜け、崖沿いの道へ出た。
 はるか下で海がくだけて白く泡立っている。
 その先、灰青色の空を背にして、石の巨体が姿を現した。

 獅鷲の城。

 険しい岩山に爪を立てるように建つ、古く巨大な城だった。
 塔がいくつも突き出し、外壁には風雪に削られた傷が走っている。
 華やかな王宮ではない。
 孤独で、誇り高く、頑固そうな城だ。

「似合いすぎだろ……」

 思わずこぼれた。
 あの女に。
 エリーゼに。

 車を降りたところで、ディオンは一度立ち止まった。
 ここまで来て、急に心臓がうるさくなる。

 会いたい。
 今すぐ会いたい。
 それなのに、いざそこに彼女がいると思うと、気後れした。

 何を言う。
 どういう顔をする?
 「会いに来た」で済むわけがない。
 実際のところ、自分は会いに来たどころではない。
 ほとんど生き返りに来たようなものだ。

「……かっこ悪すぎだ」

 空をあおぐ。
 だが、引き返すくらいなら最初から来ていない。

 門番に偽名を告げ、取り次ぎを頼むこともできた。

「今度は玄関から入るつもりだったのにな……」

 けれどディオンはそうしなかった。
 真っ当な真似ができる性格なら、そもそもこんなにこじらせていない。

 彼は城壁の影へ回り、古い雨どいを見つけ、指先で腐食具合を確かめた。
 少し口元がゆるむ。
 ほんの少しだけいつもの自分に戻った気がした。

「待ってろよ、エリーゼ」

 誰にも聞こえない声でそう言う。
 不意に風向きが変わった。目に見えない何かが動き出したかのような、禍々しい変化だった。
 頭の中で警鐘が鳴り響く。あの感覚だ。危険が訪れる前に必ずやってくる予感。

 ――警戒が必要だな。

 彼の勘は外れない。
 だが、それで止まれるディオンではない。

「危険なら大の得意だ」

 怪盗は石壁をのぼりはじめた。