「ミスった」
綾瀬は、こちらを見なかった。
「オペですか」
「うん」
「患者さんは、大丈夫だったんですか」
「患者は無事。……でも、藤崎先生に途中で取り上げられた」
「そうですか」
それだけだった。
良かったですね、とも。
大丈夫ですよ、とも言わない。
及川は思わず綾瀬を見た。
「……あのさぁ」
「はい」
「何しに来たわけ?」
「さっき言ったと思いますけど」
「穴場スポットだから?」
「はい」
「可愛くないなぁ」
思わず漏れた。
綾瀬は少しだけこちらを見た。
「可愛くないですよ」
「自覚あるんだ」
「可愛く言ってほしくないのでは?」
及川は黙った。
確かに。
今、可愛く慰められたら、たぶん余計にしんどい。
――大丈夫です。
――次があります。
――藤崎先生もきっと分かっています。
そんな言葉を並べられたら、笑って流すしかなくなる。
その顔を作る気力が、今はなかった。
綾瀬はまた前を向いた。
「誰だって、うまくいかない時はあります」
「看護師の失敗と、医者の失敗は違う」
「違いますね」
あっさり認められて、及川は言葉を失った。
「でも、今日できなかったからって、次もできないわけじゃないでしょう」
及川は黙った。
綾瀬は、それ以上何も言わなかった。
ただ、隣に座っている。
及川は手の中の缶を見た。
患者が無事だったことも
藤崎先生が代わった判断が正しかったことも
分かっている。
それでも。
最後までやりたかった。
自分の手で、やり切りたかった。
だから悔しい。
それだけだった。
「……もう一回学び直すよ」
ぽつりと口にすると、綾瀬が少しだけこちらを見た。
「謙虚な姿勢なら大丈夫ですね」
「何その上から目線」
「下から見上げてますけど」
「身長差の話じゃないし」
「もう立ち直ったみたいですね」
及川は少しだけ眉を寄せた。
「……やっぱり可愛くないな」
「褒め言葉として受け取ります」
及川は小さく笑った。
缶コーヒーのプルタブを開ける。
小さな音が、静かな渡り廊下に響いた。
一口飲む。
「……にがっ」
「ブラックですからね」
「なんでブラックなんだよ。普通、こういう時は甘いやつじゃないのかよ」
「そのくらいの苦さの方が、及川くんには良いかと」
「どういう判断だよ」
「なんとなくです」
「……苦」
綾瀬は、少しだけ笑った。
その笑い方が、四年前よりもずっと柔らかかった。
及川は缶を持ったまま、しばらく前を見た。
沈黙が続く。
でも、さっきまでの沈黙とは少し違っていた。
「なぁ」
「何ですか」
「こういうことすると、好意を向けられるとか思わないの?」
綾瀬は、はっきりと呆れた顔をした。
「いつの話をしているんですか」
「だな」
及川は小さく笑った。
「まあ、俺も一ミリも向かないけど」
「向かれても困ります」
「即答」
「困りますから」
及川は笑った。
さっきまで胸の奥に詰まっていたものが、少しだけほどけている。
全部消えたわけではない。
オペの場面はまだ頭から離れない。
藤崎先生の「代わる」という声も、まだ耳に残っている。
けれど、さっきまでとは違った。
戻らなければならない。
そう思えた。
逃げたままではいられない。
その時だった。
後ろから、少し楽しそうな声がした。
「あれ? 10Aコンビ、仲いいじゃん」
及川の背中が固まった。
振り返ると、桐谷先生が立っていた。
腕を組み、分かりやすくニヤついている。
綾瀬は特に動じなかった。
「またまたご冗談を」
そう言って、立ち上がる。
「四年前のリベンジをしただけです」
「リベンジ?」
桐谷先生が面白そうに眉を上げる。
綾瀬はそれ以上説明しなかった。
「では、私は戻ります」
軽く頭を下げ、そのまま歩き出す。
及川は缶コーヒーを持ったまま、その背中を見送った。
――四年前のリベンジ。
四年前のあの日、綾瀬を追いかけて声をかけた日のことを言っているのだろう。
あの時、俺は綾瀬にカフェオレを渡したはずだ。
甘さを、ブラックの苦さで返してくるとは。
「……本当、可愛くねぇ」
心の声だった。
たぶん、出ていた。
及川が立ち上がって後ろを見ると、桐谷先生の横にもう一人いた。
藤崎先生だった。
綾瀬は、こちらを見なかった。
「オペですか」
「うん」
「患者さんは、大丈夫だったんですか」
「患者は無事。……でも、藤崎先生に途中で取り上げられた」
「そうですか」
それだけだった。
良かったですね、とも。
大丈夫ですよ、とも言わない。
及川は思わず綾瀬を見た。
「……あのさぁ」
「はい」
「何しに来たわけ?」
「さっき言ったと思いますけど」
「穴場スポットだから?」
「はい」
「可愛くないなぁ」
思わず漏れた。
綾瀬は少しだけこちらを見た。
「可愛くないですよ」
「自覚あるんだ」
「可愛く言ってほしくないのでは?」
及川は黙った。
確かに。
今、可愛く慰められたら、たぶん余計にしんどい。
――大丈夫です。
――次があります。
――藤崎先生もきっと分かっています。
そんな言葉を並べられたら、笑って流すしかなくなる。
その顔を作る気力が、今はなかった。
綾瀬はまた前を向いた。
「誰だって、うまくいかない時はあります」
「看護師の失敗と、医者の失敗は違う」
「違いますね」
あっさり認められて、及川は言葉を失った。
「でも、今日できなかったからって、次もできないわけじゃないでしょう」
及川は黙った。
綾瀬は、それ以上何も言わなかった。
ただ、隣に座っている。
及川は手の中の缶を見た。
患者が無事だったことも
藤崎先生が代わった判断が正しかったことも
分かっている。
それでも。
最後までやりたかった。
自分の手で、やり切りたかった。
だから悔しい。
それだけだった。
「……もう一回学び直すよ」
ぽつりと口にすると、綾瀬が少しだけこちらを見た。
「謙虚な姿勢なら大丈夫ですね」
「何その上から目線」
「下から見上げてますけど」
「身長差の話じゃないし」
「もう立ち直ったみたいですね」
及川は少しだけ眉を寄せた。
「……やっぱり可愛くないな」
「褒め言葉として受け取ります」
及川は小さく笑った。
缶コーヒーのプルタブを開ける。
小さな音が、静かな渡り廊下に響いた。
一口飲む。
「……にがっ」
「ブラックですからね」
「なんでブラックなんだよ。普通、こういう時は甘いやつじゃないのかよ」
「そのくらいの苦さの方が、及川くんには良いかと」
「どういう判断だよ」
「なんとなくです」
「……苦」
綾瀬は、少しだけ笑った。
その笑い方が、四年前よりもずっと柔らかかった。
及川は缶を持ったまま、しばらく前を見た。
沈黙が続く。
でも、さっきまでの沈黙とは少し違っていた。
「なぁ」
「何ですか」
「こういうことすると、好意を向けられるとか思わないの?」
綾瀬は、はっきりと呆れた顔をした。
「いつの話をしているんですか」
「だな」
及川は小さく笑った。
「まあ、俺も一ミリも向かないけど」
「向かれても困ります」
「即答」
「困りますから」
及川は笑った。
さっきまで胸の奥に詰まっていたものが、少しだけほどけている。
全部消えたわけではない。
オペの場面はまだ頭から離れない。
藤崎先生の「代わる」という声も、まだ耳に残っている。
けれど、さっきまでとは違った。
戻らなければならない。
そう思えた。
逃げたままではいられない。
その時だった。
後ろから、少し楽しそうな声がした。
「あれ? 10Aコンビ、仲いいじゃん」
及川の背中が固まった。
振り返ると、桐谷先生が立っていた。
腕を組み、分かりやすくニヤついている。
綾瀬は特に動じなかった。
「またまたご冗談を」
そう言って、立ち上がる。
「四年前のリベンジをしただけです」
「リベンジ?」
桐谷先生が面白そうに眉を上げる。
綾瀬はそれ以上説明しなかった。
「では、私は戻ります」
軽く頭を下げ、そのまま歩き出す。
及川は缶コーヒーを持ったまま、その背中を見送った。
――四年前のリベンジ。
四年前のあの日、綾瀬を追いかけて声をかけた日のことを言っているのだろう。
あの時、俺は綾瀬にカフェオレを渡したはずだ。
甘さを、ブラックの苦さで返してくるとは。
「……本当、可愛くねぇ」
心の声だった。
たぶん、出ていた。
及川が立ち上がって後ろを見ると、桐谷先生の横にもう一人いた。
藤崎先生だった。

