光のそばで 〜及川蒼真が見た景色〜

術後説明、記録、申し送り。

必要なことをひと通り終えたあと、及川は医局へ戻れなかった。

術後説明には藤崎先生が立ち、及川も隣で頭を下げた。

標本の確認と病理提出の申し送りも終えた。

手術記録も、必要なところまでは入力した。

やるべきことは、やった。

それでも、指先にはまだ手術室の感覚が残っている気がした。


途中で、手が止まり、視野が狭くなった。

そして、判断が一拍遅れた。

致命的な結果にはならなかったし、患者も無事だった。

けれど、最後は藤崎先生が引き取った。

「代わる」

短い一言だった。

責められたわけではないし、怒られたわけでもない。

ただ、必要だから代わった。

それが分かるから、余計にきつかった。



及川は医局へは戻らなかった。

誰かに声をかけられるのも、慰められるのも、今は少し面倒だった。

足は自然と、病棟のある階から少し離れた場所へ向いていた。

人気の少ない渡り廊下の端。

外の光が細く入る窓と、自販機がひとつあるだけの場所。

病棟から完全に離れているわけではない。

けれど、ナースステーションの声も、患者の気配も、ここまでは少し遠い。

新人の頃、何度かここに逃げ込んだことがある。


及川はベンチに腰を下ろした。

白衣のポケットから手を出し、膝の上で組む。


何が悪かった。

どこで遅れた。

あの時、先にこっちを確認すべきだった。

いや、その前に、もっと準備ができていれば。


頭の中で、同じ場面が何度も戻ってくる。

反省会というより、もはや自分への尋問だった。


その時だった。

隣に、人の気配が落ちた。

誰かが、すとんと隣に座る。

及川が顔を上げるより先に、目の前に缶コーヒーが差し出された。

ブラック。

無言だった。

顔も見ないで、ただ缶だけを差し出してくる。

「……え?」

及川は、ゆっくり隣を見た。


綾瀬美月だった。


「なんでここに?」

綾瀬は前を向いたまま答えた。

「ここは、私の穴場スポットです」

「あ……」

及川は言葉を止めた。

そういえば。

新人の頃。

ここで、綾瀬が一人で座っていたことがある。

泣いていた、と思う。

「そうだった」

及川は小さく言った。

「ここ、綾瀬がよく一人でいた場所だ」

「よく、ではありません」

即答だった。

及川は少しだけ笑った。

「でも、涙目だったことはあるよな」

「……デリカシー」

「悪い」


二人の間に、しばらく言葉がなくなった。

自販機の低い機械音だけが聞こえる。

遠くで、ナースコールの音がかすかに響いた。


綾瀬は、缶コーヒーを差し出したまま言う。

「何かあったんですか」

及川は答えなかった。

綾瀬は続ける。

「別に、言わなくていいですけど」

「じゃあ、聞くなよ」

「なんとなくお察ししますけど」

及川は黙った。

綾瀬は缶コーヒーを持つ手を少しだけ揺らした。

「冷めますよ」

「缶だろ」

「ぬるくなります」

「細かいな」

「細かいですよ」

及川はようやく缶を受け取った。

手の中で、缶の温かさだけを感じる。

綾瀬はしばらく何も言わなかった。

それが、ありがたかった。


慰めるわけでもない。

励ますわけでもない。

事情を無理に聞き出すわけでもない。

ただ、隣に座っている。

四年前、自分がそうしたように。


そのことに気づいて、及川は少しだけ息を吐いた。