藤崎先生と綾瀬の間に何かあると気づいてから、医局で藤崎先生を見ても、院内で綾瀬に会っても、恋人らしい片鱗は一切見えなかった。
強いて言うなら、横浜の外科学会で綾瀬の父親の話題が出た時だけ、藤崎先生の反応に少しだけ違和感があった。
けれど、あの時ですら白でも黒でもない態度を取られた。
つまり、何も認めていない。
綾瀬も言わない。
藤崎先生も言わない。
ただ、及川だけが勝手に気づいて、勝手に気まずくなっている。
「はぁ、気が重い」
医局の机に肘をつき、及川は深く息を吐いた。
隣にいた佐伯が、コーヒーを片手に振り返る。
「及川が珍しく弱気だな」
「弱気にもなるって」
今日から、及川と佐伯は肝胆膵班を回る。
つまり、藤崎先生に指導される。
王子と呼ばれるほど穏やかで、誰に対しても丁寧で、隙がない。
そのうえ、外科医としても優秀。
指導は細やかで丁寧。
ただし、厳しい。
そう聞いている。
それだけなら、別にいい。
問題はそこではない。
「王子がいるもんな」
佐伯が軽く言った。
「いや、佐伯、そこじゃないだろ」
「違うのか?」
「まあ、藤崎先生もいるけど……」
それは自分だけが気まずい話で、佐伯には関係のない話だった。
「かなりキャラの強い先生たちが多いもんな」
佐伯はそう言って、机の上のファイルを開いた。
「そういえば、申し送りのメモが回ってきた」
「何それ」
「肝胆膵班をもう回った同期たちが作ったらしい。先生ごとの対策メモ」
「対策メモ?」
「見る?」
佐伯が差し出してきた紙を、及川は受け取った。
そこには、肝胆膵班の先生たちについて、かなり細かく書かれていた。
どの先生がオペ室に何を持ち込むのか。
どのタイミングで画像を出しておくべきか。
論文の話を振られた時に、どの程度まで読んでおくべきか。
回診時に突っ込まれやすいポイント。
術前カンファで見られるところ。
「うわっ、誰だよ、こんなブラックリスト作ったやつ」
「すごいだろ」
「すごいけど、怖いわ」
及川は紙をめくりながら、ふと手を止めた。
「ん? 待て待て。ここ。藤崎先生の項目、おかしくないか?」
佐伯が覗き込む。
【藤崎理久】
その名前の下には、真面目な注意点が並んでいた。
【画像所見は自分の言葉で説明できるようにしておくこと。
手術記録は術式の流れだけでなく、なぜその判断をしたのかまで読んでおくこと。
曖昧な返答をすると、穏やかな顔のまま最後まで詰められる。】
そこまでは分かる。
問題は、その下だった。
【飲み会後、女性に囲まれていたら、救出すること】
「……王子のSP?」
佐伯が真顔で呟いた。
及川は紙を持ったまま固まった。
「誰だよ、こんな項目作ったやつ」
「でも、重要事項っぽいぞ」
「どこがだよ」
「藤崎先生、女性人気すごいからな」
「それは分かるけど」
分かる。
それは嫌というほど分かる。
病棟に藤崎先生が現れただけで、空気が少し変わる。
看護師も、事務も、研修医も、場合によっては患者家族ですら、妙に表情が明るくなる。
あの顔。
あの声。
あの丁寧さ。
それでいて、仕事はできる。
王子。
確かに、そう呼ばれるのも分かる。
ただ、及川が知っている藤崎先生は、それだけではない。
屋形船で聞いた、あの低い声。
あれは王子ではなかった。
少なくとも、あの瞬間は。
「及川」
背後から声がして、及川は反射的に振り返った。
藤崎先生が立っていた。
いつも通り、穏やかな表情で。
「外科コンサルに行くよ」
「……はい」
さっそく初日から、藤崎先生と行動を共にすることになった。
しかも外科コンサル。
及川は慌ててメモをポケットに突っ込み、電子カルテの確認を終えて立ち上がる。
「どこの病棟ですか?」
「10A」
及川は一瞬、足を止めた。
10A。
初日から引きすぎなのではないだろうか。
10Aには綾瀬がいる。
そして、二人は恋人同士に違いない。
お願いだから。
綾瀬が日勤ではありませんように。
強いて言うなら、横浜の外科学会で綾瀬の父親の話題が出た時だけ、藤崎先生の反応に少しだけ違和感があった。
けれど、あの時ですら白でも黒でもない態度を取られた。
つまり、何も認めていない。
綾瀬も言わない。
藤崎先生も言わない。
ただ、及川だけが勝手に気づいて、勝手に気まずくなっている。
「はぁ、気が重い」
医局の机に肘をつき、及川は深く息を吐いた。
隣にいた佐伯が、コーヒーを片手に振り返る。
「及川が珍しく弱気だな」
「弱気にもなるって」
今日から、及川と佐伯は肝胆膵班を回る。
つまり、藤崎先生に指導される。
王子と呼ばれるほど穏やかで、誰に対しても丁寧で、隙がない。
そのうえ、外科医としても優秀。
指導は細やかで丁寧。
ただし、厳しい。
そう聞いている。
それだけなら、別にいい。
問題はそこではない。
「王子がいるもんな」
佐伯が軽く言った。
「いや、佐伯、そこじゃないだろ」
「違うのか?」
「まあ、藤崎先生もいるけど……」
それは自分だけが気まずい話で、佐伯には関係のない話だった。
「かなりキャラの強い先生たちが多いもんな」
佐伯はそう言って、机の上のファイルを開いた。
「そういえば、申し送りのメモが回ってきた」
「何それ」
「肝胆膵班をもう回った同期たちが作ったらしい。先生ごとの対策メモ」
「対策メモ?」
「見る?」
佐伯が差し出してきた紙を、及川は受け取った。
そこには、肝胆膵班の先生たちについて、かなり細かく書かれていた。
どの先生がオペ室に何を持ち込むのか。
どのタイミングで画像を出しておくべきか。
論文の話を振られた時に、どの程度まで読んでおくべきか。
回診時に突っ込まれやすいポイント。
術前カンファで見られるところ。
「うわっ、誰だよ、こんなブラックリスト作ったやつ」
「すごいだろ」
「すごいけど、怖いわ」
及川は紙をめくりながら、ふと手を止めた。
「ん? 待て待て。ここ。藤崎先生の項目、おかしくないか?」
佐伯が覗き込む。
【藤崎理久】
その名前の下には、真面目な注意点が並んでいた。
【画像所見は自分の言葉で説明できるようにしておくこと。
手術記録は術式の流れだけでなく、なぜその判断をしたのかまで読んでおくこと。
曖昧な返答をすると、穏やかな顔のまま最後まで詰められる。】
そこまでは分かる。
問題は、その下だった。
【飲み会後、女性に囲まれていたら、救出すること】
「……王子のSP?」
佐伯が真顔で呟いた。
及川は紙を持ったまま固まった。
「誰だよ、こんな項目作ったやつ」
「でも、重要事項っぽいぞ」
「どこがだよ」
「藤崎先生、女性人気すごいからな」
「それは分かるけど」
分かる。
それは嫌というほど分かる。
病棟に藤崎先生が現れただけで、空気が少し変わる。
看護師も、事務も、研修医も、場合によっては患者家族ですら、妙に表情が明るくなる。
あの顔。
あの声。
あの丁寧さ。
それでいて、仕事はできる。
王子。
確かに、そう呼ばれるのも分かる。
ただ、及川が知っている藤崎先生は、それだけではない。
屋形船で聞いた、あの低い声。
あれは王子ではなかった。
少なくとも、あの瞬間は。
「及川」
背後から声がして、及川は反射的に振り返った。
藤崎先生が立っていた。
いつも通り、穏やかな表情で。
「外科コンサルに行くよ」
「……はい」
さっそく初日から、藤崎先生と行動を共にすることになった。
しかも外科コンサル。
及川は慌ててメモをポケットに突っ込み、電子カルテの確認を終えて立ち上がる。
「どこの病棟ですか?」
「10A」
及川は一瞬、足を止めた。
10A。
初日から引きすぎなのではないだろうか。
10Aには綾瀬がいる。
そして、二人は恋人同士に違いない。
お願いだから。
綾瀬が日勤ではありませんように。

