定食屋から医局へ戻ると、本当に仕事が増えた。
術前カンファレンスの準備。
画像の整理。
術式の確認。
文献検索。
術後管理のまとめ。
次のオペの予習。
さっきまで、もっと学びたいと思っていた自分を少しだけ殴りたい。
「及川」
「はい」
「この症例、明日までにまとめて」
「はい」
「あと、こっちは術式の選択理由」
「はい」
「それから、ここの血管走行、画像で説明できるようにしておいて」
「……はい」
及川は積み上がっていく資料を見た。
「先生、俺を育てる気、急に強くなってません?」
「急にじゃないよ」
「いや、急にです」
「及川がやる気を見せたから」
「見せましたけど」
「じゃあ、応えないと」
「応え方が重いんですよ」
及川が机に手をつくと、藤崎先生はカルテ画面から目を離さないまま言った。
「俺も早く帰りたいんだよ」
「それ、指導医が言っていいんですか」
「いいよ」
藤崎先生は、何でもない顔で続けた。
「あぁ、早く美月に会いたいなぁ」
及川は固まった。
いま。
この人。
何を言った。
「……先生」
「うん」
「最近、割と開き直ってませんか?」
「何が?」
「王子キャラじゃない時が増えましたよ」
藤崎先生はようやく画面から目を上げた。
そして、少しだけ楽しそうに笑う。
「及川が特別だから、かな」
「うわっ」
及川は反射的に一歩引いた。
「その笑顔が眩しい!」
「大げさだね」
「大げさじゃないです。今のは危ないです」
「危ない?」
「危うくこっちがときめくところでした」
「それは困るね」
「俺も困ります!」
藤崎先生は声を立てずに笑った。
その笑い方が、またずるい。
病棟で見ていた完璧な王子の笑顔とは少し違う。
もっと軽くて、少し茶目っ気があって、距離が近い。
及川は思った。
ああ、これは危ない。
綾瀬がこの顔を見ていたのなら、そりゃあ無理だ。
逃げられない。
「先生」
「何?」
「前から言ってますけど、もう少しその性格、前面に出してもいいと思いますけど」
「いや」
藤崎先生は即答した。
「寄って来られても困るから」
「俺はオッケーなんすね」
「そうだね」
藤崎先生は、また綺麗に笑った。
「可愛い後輩だからね」
「うわぁ……」
及川は机に額をつけそうになった。
やめてほしい。
その顔でそういうことを言うのは、普通にずるい。
藤崎先生は、確かに王子だ。
それは間違いない。
けれど、及川が最初に見ていた王子とは少し違う。
案外、茶目っ気がある。
案外、人を揶揄う。
美月に会いたいと平然と言う。
そして、懐に入れた相手には思っていたよりずっと距離が近い。
どうやら自分も、いつの間にかその内側に入れてもらえたらしい。
それは、素直に嬉しかった。
でも。
可愛い後輩で終わるつもりはない。
今日、初めて「任せられた」と言ってもらえた。
次はもっと先へ行きたい。
後輩として可愛がられるだけではなく、一人の外科医として認めてもらいたい。
「及川」
「はい」
「手、止まってるよ」
「今、ちょっと感動してたんですよ」
「何に?」
「先生には教えません」
「そう」
「そこ、もっと興味持ってくださいよ」
藤崎先生が笑った。
「じゃあ、感動したついでにこれもお願い」
新しい資料が差し出される。
及川はそれを見て、顔をしかめた。
「……増えた」
「やる気あるんでしょ?」
数秒、資料と藤崎先生の顔を見比べる。
それから、及川は手を伸ばした。
「ありますよ」
「うん」
藤崎先生が柔らかく笑う。
「期待してるよ、及川」
「……はい」
今度は、プレッシャーだとは思わなかった。
ちゃんと応えたいと思った。
及川は資料を受け取り、席へ戻る。
藤崎先生が留学から帰ってくる頃には、今よりずっと成長していたい。
そしていつか、胸を張ってこの人の隣に立ちたい。

藤崎理久という医者は、自分にとって眩しい光だ。
今はまだ、その背中を追いかけるだけで精一杯だけれど。
その光を追いかけて。
いつか自分も、誰かを照らす光になりたい。
そう思えた。
完
術前カンファレンスの準備。
画像の整理。
術式の確認。
文献検索。
術後管理のまとめ。
次のオペの予習。
さっきまで、もっと学びたいと思っていた自分を少しだけ殴りたい。
「及川」
「はい」
「この症例、明日までにまとめて」
「はい」
「あと、こっちは術式の選択理由」
「はい」
「それから、ここの血管走行、画像で説明できるようにしておいて」
「……はい」
及川は積み上がっていく資料を見た。
「先生、俺を育てる気、急に強くなってません?」
「急にじゃないよ」
「いや、急にです」
「及川がやる気を見せたから」
「見せましたけど」
「じゃあ、応えないと」
「応え方が重いんですよ」
及川が机に手をつくと、藤崎先生はカルテ画面から目を離さないまま言った。
「俺も早く帰りたいんだよ」
「それ、指導医が言っていいんですか」
「いいよ」
藤崎先生は、何でもない顔で続けた。
「あぁ、早く美月に会いたいなぁ」
及川は固まった。
いま。
この人。
何を言った。
「……先生」
「うん」
「最近、割と開き直ってませんか?」
「何が?」
「王子キャラじゃない時が増えましたよ」
藤崎先生はようやく画面から目を上げた。
そして、少しだけ楽しそうに笑う。
「及川が特別だから、かな」
「うわっ」
及川は反射的に一歩引いた。
「その笑顔が眩しい!」
「大げさだね」
「大げさじゃないです。今のは危ないです」
「危ない?」
「危うくこっちがときめくところでした」
「それは困るね」
「俺も困ります!」
藤崎先生は声を立てずに笑った。
その笑い方が、またずるい。
病棟で見ていた完璧な王子の笑顔とは少し違う。
もっと軽くて、少し茶目っ気があって、距離が近い。
及川は思った。
ああ、これは危ない。
綾瀬がこの顔を見ていたのなら、そりゃあ無理だ。
逃げられない。
「先生」
「何?」
「前から言ってますけど、もう少しその性格、前面に出してもいいと思いますけど」
「いや」
藤崎先生は即答した。
「寄って来られても困るから」
「俺はオッケーなんすね」
「そうだね」
藤崎先生は、また綺麗に笑った。
「可愛い後輩だからね」
「うわぁ……」
及川は机に額をつけそうになった。
やめてほしい。
その顔でそういうことを言うのは、普通にずるい。
藤崎先生は、確かに王子だ。
それは間違いない。
けれど、及川が最初に見ていた王子とは少し違う。
案外、茶目っ気がある。
案外、人を揶揄う。
美月に会いたいと平然と言う。
そして、懐に入れた相手には思っていたよりずっと距離が近い。
どうやら自分も、いつの間にかその内側に入れてもらえたらしい。
それは、素直に嬉しかった。
でも。
可愛い後輩で終わるつもりはない。
今日、初めて「任せられた」と言ってもらえた。
次はもっと先へ行きたい。
後輩として可愛がられるだけではなく、一人の外科医として認めてもらいたい。
「及川」
「はい」
「手、止まってるよ」
「今、ちょっと感動してたんですよ」
「何に?」
「先生には教えません」
「そう」
「そこ、もっと興味持ってくださいよ」
藤崎先生が笑った。
「じゃあ、感動したついでにこれもお願い」
新しい資料が差し出される。
及川はそれを見て、顔をしかめた。
「……増えた」
「やる気あるんでしょ?」
数秒、資料と藤崎先生の顔を見比べる。
それから、及川は手を伸ばした。
「ありますよ」
「うん」
藤崎先生が柔らかく笑う。
「期待してるよ、及川」
「……はい」
今度は、プレッシャーだとは思わなかった。
ちゃんと応えたいと思った。
及川は資料を受け取り、席へ戻る。
藤崎先生が留学から帰ってくる頃には、今よりずっと成長していたい。
そしていつか、胸を張ってこの人の隣に立ちたい。

藤崎理久という医者は、自分にとって眩しい光だ。
今はまだ、その背中を追いかけるだけで精一杯だけれど。
その光を追いかけて。
いつか自分も、誰かを照らす光になりたい。
そう思えた。
完

